「ねえ、ここ、本当に日本にいるみたいだね」
「ねえ、ここ、本当に日本にいるみたいだね」
君がそう呟いたとき、僕たちはちょうど綠舞國際觀光飯店のエントランスに立っていた。7月の宜蘭は、空気が濃い。肌にまとわりつく湿り気が、まるで目に見えない薄い膜のように僕たちを包み込んでいた。
「そうだね。でも、どこか違う気がする。もっと、呼吸が深くになる感じ」
僕は、その重たい空気が嫌いではなかった。むしろ、その重みが僕たちの間にある空白をゆっくりと埋めてくれるような、そんな心地よさを感じていた。
湿った風が連れてきた、名付けようのない時間
浴衣の帯を締めるとき、かすかな衣擦れの音が静まり返った部屋に心地よく響いた。いつもより少しだけ不自由な身体の動き。そのもどかしさが、隣にいる君の呼吸を、いつもより鮮明に意識させてくれる。僕たちは、お互いの歩幅を合わせることに慣れていないけれど、ここではその不器用さが、むしろ愛おしいリズムのように感じられた。
抹茶を口に含んだとき、舌の上に広がる心地よい苦味と、鼻に抜ける若草のような香りが、意識をいまこの瞬間に繋ぎ止める。それは、甘すぎる日常に飽きていた僕たちにとって、ちょうどいい刺激だった。指先にわずかに残った和菓子の砂糖のざらつきを、君が不思議そうに見つめていた。その小さな仕草だけで、心の中のさざ波が静まっていくのがわかった。
客室の窓の外には、深く濃い緑が波打っていた。7月の太陽が照らし出したその色は、目に刺さるほど鮮やかで、それでいて深い森の静寂を湛えている。朝の6時、カーテンの隙間から差し込む光が、白いシーツの上に細い金色の線を引いていた。その光の粒を眺めていると、時間というものが、ただそこにあるだけの贅沢な物質のように感じられた。
園内を歩けば、穏やかな瞳をしたアルパカや鹿たちが、僕たちの訪れを静かに迎えてくれる。小規模な美術館に飾られた作品たちが放つ静謐な空気感に包まれながら、僕たちは言葉を失い、ただ隣り合って歩いた。ジップラインに飛び出した瞬間、耳を激しく打つ風の音と、視界を埋め尽くす緑の奔流。隣で君が上げた小さな悲鳴が、風にさらわれて消えていく。その瞬間、僕たちは言葉を捨てて、ただ同じ速度で空を切り裂いていた。降りた後、格好良く決めようとした僕の髪は、ひどい鳥の巣みたいになっていたけれど、君がそれを指差して笑ったとき、世界がとても単純で、優しいものに思えた。
夜、部屋の明かりを落とすと、外の静寂がゆっくりと部屋の中に流れ込んでくる。エアコンの規則的な動作音だけが、僕たちがここに存在していることを証明していた。裸足で踏んだタイルのひんやりとした温度が、火照った足裏からゆっくりと熱を奪っていく。孤独は、もともと身体に備わっている重さのようなものだと思っていた。でも、隣で君が静かに寝息を立てているのを聞いていると、その重さが、ゆっくりと温かな安心感に変わっていくのがわかる。
僕たちはまだ、お互いのことをすべて知っているわけではない。それでも、この湿った風の中で、同じリズムで呼吸をしている。それだけで、十分な答えになるのかもしれない。
オレンジ色に染まり始めた空の下、君の手が僕の指先に、そっと触れた。
- 浴衣を着て、あえて目的もなく園内の緑の中をゆっくり歩いてみてほしいな。
- ジップラインの後は、二人で冷たい飲み物を飲みながら、お互いの乱れた髪を笑い合って。