← 戻る 那須いちやホテル

濡れたアスファルトと、誰かの笑い声の残響

予定調和を脱ぎ捨てた、冬の駅ホームから

改札を出た瞬間、頬を撫でた空気は薄いガラスのように冷たく、不意に呼吸が浅くなった。那須塩原駅のホームに漂う、乾いた鉄の匂いと、誰かがこぼしたコーヒーの苦い香り。冬の澄んだ空気が、肺の奥まで鋭く入り込んでくる。私たちはそこで、「この旅で一番最初に忘れ物をした奴が、初日の夜の飲み物を奢る」という、大人の皮を被ったくだらない賭けをしていた。結果的に、私たち三人は全員が充電器を忘れていた。「嘘でしょ?」という絶望の声が重なり、ロビーでコンセントを奪い合う姿は、まるで電力を求める現代の巡礼者のようで、自分たちでさえ「誇張しすぎじゃないか」と笑い合っていた。誰かが歩幅を乱して遅れ、誰かが地図を逆さまに持ち、誰かがひたすら空腹を訴える。そんなバラバラなリズムが、心地よいBGMのように耳に残り、旅の始まりを告げていた。

地図の空白に迷い込んだ、名もなき路地

ホテルへ向かう道中、ふと曲がった路地で地図が意味をなさなくなった。足元で乾いた落ち葉がサクサクと小気味よい音を立て、湿った土の濃い匂いが肺の奥まで入り込んでくる。ふと視線を落とすと、古い石垣の隙間を、深い緑色の苔がゆっくりと、けれど確実に侵食していた。境界線を曖昧にしていくその緑の絨毯を見ていると、私たちの関係も似ている気がした。最初から完璧にフィットしていたわけではなく、お互いの欠けた部分に、時間をかけてゆっくりと、湿り気を帯びた感情が入り込んでいった。そんな風に、少しずつ重なり合って、いまここにいる。迷い込んだ道で見つけた名もなき小さな祠に、誰が供えたのか分からない色あせた花が添えられていた。「正解のルートから外れたときだけに見える景色があるね」と誰かが呟く。それは、効率的な旅では決して手に入らない、贅沢な空白の時間だった。

畳の温もりに溶ける、不器用な心地よさ

那須いちやホテルに足を踏み入れた瞬間、外の冷気を脱ぎ捨て、ふわりと包み込まれるような温かさに心まで緩んだ。2階の「キッチンギャラリー・ヨッテコ」では、シェフがナイフを刻む規則的な音が心地よく響き、旬の野菜を使ったアミューズが並んでいた。口に運んだ根菜の、土の力強さを感じさせる濃厚な甘み。それは、丁寧に育てられた記憶をそのまま食べているような感覚だった。

部屋に入り、裸足で琉球畳を踏む。指先に伝わるのは、適度な弾力としっとりとした落ち着いた温度。和モダンベッドの清潔なリネンの香りが鼻をくすぐり、心地よい緊張感が解けていく。「ここは私の特等席!」と、誰がどこで寝るかで子供のように言い争い、やがて布団の重みが体に馴染むとき、ようやく旅の本当の休息が始まったことを悟った。

白眉は、屋上の絶景露天風呂だった。PH7.5の弱アルカリ泉が、絹のように滑らかに肌を撫で、指先から心まで解きほぐしていく。お湯に浸かりながら見上げた夜空には、吸い込まれそうなほどの星が散らばり、時折、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえていた。関東平野を一望できるその場所で、私たちは言葉を失った。ただ、お湯の温度と、隣にいる友人の体温だけが、確かな正解としてそこにあった。翌朝、水面に映る朝日を眺めながら、那須御用卵を落とした卵かけご飯を頬張る。黄金色の卵が、温かいご飯にゆっくりと溶け込んでいく様子を眺めていると、なんだか、このままずっとここにいてもいいかもしれない、という気がした。私たちは、それぞれ違う周波数を持ちながら、この場所でだけは同じリズムで呼吸していた。完璧じゃないままで、ここにいていい。そう思わせてくれる静けさが、そこにはあった。

濡れた指先で触れた、冷たい手すりの感触だけがまだ残っている。

  • 朝日とともに屋上露天風呂へ行き、関東平野の地平線が白く染まる瞬間を眺めてほしい。
  • キッチンギャラリーでのつまみ食いパーティーでは、ぜひシェフおすすめの旬野菜を試してほしい。