← 戻る ホテルサンバレー那須

湯気に溶けた横顔と、少しだけ遅い歩幅

湯気に溶けた横顔と、少しだけ遅い歩幅

凍えた指先をほどく、青い静寂の入り口

外気は十二度まで下がり、頬をなでる風は鋭い刃のように冷たかった。コートの襟を立て、身を縮めて足を踏み入れたホテルサンバレー那須のロビーは、外の世界とは切り離された別次元の静寂に包まれていた。オリエンタルガーデンの吹き抜けから降り注ぐ柔らかな光が、まだ少しぎこちない私たちの間に、淡い陰影を落としている。視界に飛び込んできたのは、深く、吸い込まれるような青色をしたプールだった。その澄んだ色彩を見た瞬間、肺の奥まで冷たい水に浸されたような心地よい衝撃が走り、同時に、旅の緊張で張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのがわかった。「綺麗だね」と口に出しかけて、けれど言葉にするのがもったいなくて飲み込む。チェックインを待つ間、私たちはあえて視線を合わせず、ただ静かに水面を眺めていた。誰が決めたかもわからない正解のような会話を急ぐのではなく、ただ同じ空間の温度と、この深い青を共有すること。それだけで十分なのだと、この場所の静けさが教えてくれている気がした。

鼓動を緩める、ふくろうたちが導く森の回廊

華やかなロビーの喧騒を離れ、「ふくろうの森」へと続く小道に足を踏み入れると、音の景色ががらりと変わった。足元で乾いた落ち葉がサク、サクと小さな悲鳴を上げる。その不規則で心地よいリズムが、私たちの歩幅を自然と緩やかにさせた。道端には、松原幸治氏の手による木彫りのふくろうたちが、静かに、けれどどこかいたずらっぽく私たちを見守っている。指先でその木の表面に触れると、チェーンソーで削り出された力強い跡と、丁寧に磨き上げられた滑らかさが同居しており、大地の生命力が指先から伝わってくるようだった。森の空気はひんやりと澄み渡り、呼吸をするたびに肺の中が浄化されていく。君がふと、「このふくろう、どこを見てるんだろうね」と小さく笑った。その声が、冷たい空気の中で小さな波紋のように広がり、私の心に届く。私たちは目的地に急ぐことをやめ、木々の隙間からこぼれる十一月の淡い光を追いかけながら、言葉にならない感情を落ち葉の音に紛れ込ませて歩いた。

境界線が溶け合う、檜の香りと湯煙の聖域

客室のドアを開けた瞬間、まず届いたのは、かすかな硫黄の香りと、温もりのある檜の香りだった。私たちが滞在したのは源泉かけ流し 露天風呂付洋室。外の森の静寂をそのまま室内に持ち込んだかのような、穏やかで贅沢な空間だ。そのまま露天風呂へと向かい、源泉かけ流しの混合泉に体を沈めた瞬間、肌がぴりりと震え、それから深い熱が骨の芯までじっくりと浸透していく。檜の浴槽から立ち上る白い湯気が視界をぼんやりと遮り、世界に私たち二人だけが取り残されたような、心地よい錯覚に陥った。湯気に溶けて輪郭が曖昧になった君の横顔を見つめる。ここでは、誰に見られる必要もないし、何者かである必要もない。ただの皮膚と、体温と、絶え間なく流れる水の音だけがある。ふと、持ってきた那須のりんごを二人で分けた。冷たくて驚くほど甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、温泉の熱で火照った体に心地よい刺激を与える。あちこちに散らばっていた思考の断片が、お湯の温度に溶けて、ゆっくりとひとつにまとまっていく感覚。もしかすると、私たちはずっと、こういう「何もしない時間」を分かち合いたかっただけなのかもしれない。お互いの呼吸が同じリズムで重なり始めるまで、私たちはただ、お湯の音に耳を傾けていた。

窓辺に灯る、夜の星と静かな体温の記憶

夜が訪れると、窓の外にはまた別の幻想的な景色が広がっていた。部屋の明かりを少し落とし、窓辺に並んで座る。遠くに見えるイルミネーションの光が、暗い森の中に点在する小さな星のように瞬いていた。十一月の夜空はどこまでも深く、吸い込まれそうな黒色をしているけれど、その深い闇があるからこそ、小さな光の粒がこんなにも愛おしく、切なく見える。私たちは、どちらからともなく肩を寄せ合った。コートを着ていたときよりも、ずっと近い距離。けれど、それは不自然ではなく、ただそこにあるべき温度のように感じられた。外の世界は相変わらず速い速度で回転しているけれど、この窓の内側だけは、別の緩やかな時間が流れている。もしかすると、旅というものは、新しい場所へ行くことではなく、隣にいる人の新しい一面を、静かに発見することなのだろう。君の手のひらの温もりが、ゆっくりと私の中に溶け込んでいく。その感覚を、言葉にして壊したくなかった。ただ、窓の外で揺れる光の粒を数えながら、私たちは心地よい疲労感に身を任せた。

私たちは、ただ一緒にここにいればいいのだと、ようやく気づいた気がした。

  • 源泉かけ流し露天風呂付き客室で、那須の地産りんごを味わいながら、時間を忘れて湯に浸かること
  • 夜の森に灯るイルミネーションを、あえて言葉を交わさずに二人で静かに見つめる時間を過ごすこと