← 戻る ホテルサンバレー那須

指先に残った、湯気の温度

指先に残った、湯気の温度

午前11時、肺の奥まで冷たい空気が届く頃

足元の砂利が、踏むたびに乾いた音を立てる。硬く、冷ややかな響き。2月の那須高原は、空気が張り詰めていて、呼吸をするたびに肺の奥がちりりと痛む。けれどその痛みが、自分が今、確かにこの凍てつく世界に立っていることを教えてくれた。隣を歩く君のウールのコートの袖が、時折僕の腕に触れる。わざとではないけれど、避けるでもない。その曖昧な距離感に、僕は心地よい緊張を覚えていた。

梅まつりへ向かう道すがら、視界に飛び込んでくるのは、鉛色に沈んだ空と、そこに点在する鮮やかな濃いピンク色の斑点。冬の終わりを急かすように咲く梅の花だ。香りはどこか控えめで、冷たい風にさらわれては消えていく。僕たちは多くを語らなかった。「綺麗だね」という短い言葉さえ、この静寂の中では十分すぎるほどに響いた。言葉にするよりも、冷たい空気の中で君の体温を想像している方が、ずっと贅沢な時間に思えた。

ふと、君が立ち止まって、小さく笑った。鼻先を赤くして、冬の空を仰いでいる。その横顔を見た瞬間、僕の中の強張っていた何かが、ふっと緩んだ。僕たちの関係は、ずっとチューニングの合わない楽器のように不協和音を奏でていたけれど、この静寂の中では、そのズレさえも心地よいリズムに聞こえた。完璧に重なり合う必要なんてない。ただ、同じ方向へ、同じ速度で歩いている。それだけで十分なのだと、冷たい風に吹かれながら確信した。

午後11時、森の静寂が耳を塞ぐ時間

ホテルサンバレー那須の「ふくろうの森」に佇む、源泉かけ流し 露天風呂付洋室に足を踏み入れたとき、まず感じたのは、木の温もりと外の冷気との鮮やかなコントラストだった。重いドアを閉めた瞬間に、外界の喧騒がふっと消え、残ったのは僕たちの静かな呼吸音と、遠くの梢を揺らす風の音だけ。ここでは、沈黙さえも厚みのある柔らかい質感を持っていて、僕たちを優しく包み込んでくれる。

客室の露天風呂に、ゆっくりとお湯を溜める。ジャァーという水音が狭い空間に反響し、心地よいリバーブとなって耳に残る。立ち上る湯気と共に、濃厚な硫黄の香りがゆっくりと広がっていく。その香りは、日常という名の檻から切り離されたことを告げる合図のようだった。お湯に体を沈めると、皮膚の境界線が曖昧になり、自分が森の一部、あるいは水の一部に溶けていくような感覚に陥る。夜の森の深い闇が、湯気で白くぼやけた視界の向こう側に広がっていた。

隣に座る君の肩が、わずかに触れている。その微かな温度が、今の僕にとっての世界のすべてだった。ふと、君がポケットから小さなチョコレートを取り出した。「バレンタインに近いし」と照れくさそうに笑う。けれど、指の熱で少しだけ溶けていて、包み紙を剥がすときに指にくっついてしまった。「あ、失敗した」と小さく笑う君が、僕の指に付いたチョコを、不器用に拭い取ってくれる。そのなんてことない瞬間に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

僕たちは、互いの欠落を埋め合おうとして、今まで疲れ切っていたのかもしれない。けれど、この深い森の中、白濁したお湯に囲まれて、ただ一緒に震えながら笑い合っていると、足りない部分があるからこそ、そこに相手が入る余地があるのだと感じた。欠けているところから、相手の温度が流れ込んでくる。それは解決すべき問題ではなく、分かち合うべき風景だったのだ。心地よい眠気が波のように押し寄せ、意識が遠のいていく。明日になればまた、不揃いな歩幅に戻るだろう。けれど今はただ、この温かな残響の中に、深く浸っていたい。

濡れた髪から滴る水滴が、フローリングに小さな点を作る。