「充電器、誰が忘れた?」という絶望から始まる旅
「ねえ、マジで誰?充電器忘れたの誰なのよ!」
雨に濡れて重くなったバッグを地面に放り出し、一人が絶叫した。周囲にはしとしとと冷たい雨が降り注いでいる。
「え、お前だろ。出発前に『完璧にパッキングしたから安心しろ』って、あの自信満々なドヤ顔で言ってたじゃん」
「あれはパスポートの話!っていうか、この土砂降りの中、傘一本で三人で歩くっていう地獄のようなプランを考えたやつは誰だよ。誇張じゃなくて、今、私の右肩だけ完全に水没してるんだけど。冷たい雨が服に染み込んで、肌に張り付く感じが本当に最悪」
「まあいいじゃん。結果的に、礁溪長榮鳳凰酒店まで歩く道中で、誰が一番先に音を上げるか賭けられたし。今のところ、お前の圧勝だね」
「賭けてないし!っていうか、もう無理。足の指の感覚がなくて、氷の塊を履いて歩いてるみたい。誰か私の足に電気流してよ」
「無理。充電器ないから」
完璧な静寂を心地よく壊していく、根のような時間
ロビーに足を踏み入れた瞬間、外の湿った冷気とは対照的な、濃密で温かい空気が肺を満たした。それは丁寧に調律された静寂のような空間。けれど、そこに私たちの騒がしい笑い声と、濡れた靴が大理石の床に立てる不規則な音が混ざり合う。まるで、舗装されたコンクリートの隙間から、強引に、けれど生命力たっぷりに突き破って伸びていく植物の根のような感覚だ。この場所が持つ「完璧な贅沢」という枠組みを、私たちの混沌としたエネルギーが少しずつ、心地よく侵食していく。
案内された豪華洋式客室に入ると、まずベッドの圧倒的な質量に目を奪われた。そこに体を投げ出したとき、深いリネンの海に沈み込むような心地よさに包まれる。肌に触れるシーツのひんやりとした質感と、その直後にやってくる体温によるぬくもり。深夜、裸足で踏んだタイルの冷たさが、逆に今浸かっている温泉の熱さを際立たせていた。バスルームから漂うかすかな硫黄の香りと、指の間を滑り落ちる石鹸のぬるい感触。水圧は背中の凝りを丁寧に解きほぐすほど力強く、それでいてどこか優しい。
窓の外では、二月の宜蘭らしいしとしとと降り続く雨が景色をぼかしている。外気温は十八度。厚手のガウンに身を包み、もこもこの絨毯に足を深く埋めて、誰が一番ひどい顔で寝ているかを観察し合う。本来なら、ここは静かに自分を見つめ直すための場所なのかもしれない。けれど、私たちはあえてそれをしない。スナック菓子の袋を散らかし、ベッドの上で意味のない議論を繰り返し、贅沢な空間を「日常の延長線上の遊び場」に変えていく。その不作法さが、かえってこの旅を本物にしてくれるという気がした。ふと、誰かが「映える写真」を撮ろうとして、お湯の中でスマホを落としそうになり、全員で大爆笑したあの瞬間。完璧なホテルの設備よりも、その不格好な騒ぎこそが、この部屋の記憶に深く刻み込まれた。
湯気の向こう側で、少しだけ正直になる夜
「……ねえ、私たち、十年後もこんな感じでバカやってるかな」
浴室から上がったばかりの、火照った顔で誰かが呟いた。部屋にはまだ、心地よい湿り気が残っている。
「さあ。多分、お前の管理能力が向上してなきゃ、誰かが空港で泣いてると思う」
「ひどいな。でも、まあ、いいかもね。そういう最悪な状況を一緒に笑い飛ばせるなら」
「……というか、今のこの湯気、なんか不思議。自分たちがどこにいるのか、一瞬だけ分からなくなる感じがする」
「あー、分かる。輪郭がぼやけるっていうか。まあ、今のままでいいよね。正解とか、そういうの探さなくていいし」
「うん。とりあえず、明日の朝食の地元料理を堪能して、全力で寝坊しよう」
「賛成。誰が最後に起きるか、もう一回賭ける?」
静まり返った部屋に、小さく、けれど確かな信頼を込めた笑い声が溶けていった。
濡れたタオルが、心地よい重さで椅子の背もたれに掛かっている。
- 礁溪長榮鳳凰酒店の広大なベッドで、あえて予定を全て捨てて、泥のように眠る贅沢を。
- 二月の宜蘭は冷えるので、お気に入りの厚手ソックスを持参して、温泉上がりの温度差を楽しんで。