「ここ、本当にいいところだね」
「ここ、本当にいいところだね」
君が小さく呟いた。チェックインを済ませ、エレベーターを降りた瞬間に触れた、あの少しひんやりとした空気感。
「うん、そうだね」
僕は短く答える。言葉にするのがもったいないような、あるいは言葉にすると壊れてしまいそうな、そんな静かな予感に包まれていた。
「なんだか、時間がゆっくり流れてる気がする」
私たちはどちらからともなく、吸い寄せられるように部屋の奥へと歩き出した。
呼吸を合わせて、静寂に溶けていく時間
7月の台東は、空気がとても重い。台風が近づく前の、世界が深く息を吸い込んでいるような、濃密な湿度。外に出れば、肌にまとわりつく熱気と、どこまでも突き抜ける青い空が視界を奪う。けれど、「門廷若室 門廷若室 河堤左岸館」のドアを閉めた瞬間、そこには外界から切り離された、凪のような時間が流れていた。
まず心地よかったのは、裸足で踏んだタイルの温度だ。外の熱を忘れさせるほど澄んだ冷たさが、足裏からじわじわと身体の芯まで浸透していく。私たちは、自分たちに合う枕を一緒に選ぶことにした。布地のわずかなざらつきや、頭を預けたときの沈み込み方の違い。正解なんてないはずなのに、どちらが心地よいかを確認し合う時間は、なんだかとても親密な儀式のようだった。自分に合う高さを見つけることは、相手の呼吸に自分のリズムを合わせていく作業に似ているのかもしれない。
午後の光がカーテンの隙間から差し込み、白い壁にプリズムのような光の屈折を描き出していた。その光の粒を眺めていると、私たちの関係も、そういうものかもしれないと思った。真っ直ぐな一本の線ではなく、何度も屈折して、不器用な角度で重なり合いながら、ようやく一つの色になる。そんな不完全な調和こそが、心地よいのだという気がする。
ふと思い立って、宿に用意されていた自転車を借りて外へ出た。河岸走道を風を切って走り、海辺まで歩いて「黄記」の葱油餅を買った。指先に残る油の感触と、塩気のある香ばしい香り。それを分け合いながら、ただぼんやりと海を眺めた。途中で僕が自信満々に道を案内して、結局は行き止まりの壁にぶつかったけれど、君は怒らずに小さく笑っていた。僕はただ、壁のざらついた感触を確かめるふりをして、照れ隠しに咳払いをひとつした。
夜には、部屋まで来てくれたセラピストに頭と肩を解してもらった。植物の精油の香りが、肺の奥までゆっくりと広がっていく。凝り固まった筋肉がほどけていく感覚は、同時に、心の中にあった小さな緊張が消えていく感覚でもあった。誰にも邪魔されず、ただ自分の身体が軽くなることに集中する時間。それは、自分を大切にすることの心地よさを、もう一度思い出す時間だった。
「ねえ、明日もここでゆっくりしようか」
君が僕の肩に頭を預けて言ったとき、僕は、この場所でなら、自分たちの本当の速度で歩いていける気がした。誰に合わせる必要もなく、ただ、心地よいと感じる周波数に身を任せていればいい。
ふと気づくと、部屋の隅に置かれた交換日記があった。見知らぬ誰かが残した秘密が、ここにある。私たちはそこに、今のこの気持ちを書き留める代わりに、ただ静かに手を繋いだ。言葉にできない感情は、言葉にしないままでも、十分すぎるほど伝わっている気がしたから。
カーテンの隙間から漏れる月光が、二人の指先を白く照らしていた。
- どちらが心地よいか、時間をかけて一緒に枕を選んでみて。
- 葱油餅を持って、河岸走道の風にただ身を任せてみてほしいな。