「いや、地図ではこっちだったし!っていうか、君が右だって言い張ったからでしょ!」
激しく降り注ぐ雨が、視界を白く塗りつぶしていく。
「はあ?私はただ、あの看板が気になっただけ。それにしても、この雨、冗談でしょ」
「冗談っていうか、もう滝だよ。見てよ、靴の中まで完全に浸水して、歩くたびにグチョグチョ鳴ってる。誰か賭けない?このまま歩いて、誰が一番先に風邪を引くか」
「賭けるわけないじゃん!もう無理、誰か助けて。あ、見て!あそこにシャトルバス停まってない?救世主じゃん!」
「救世主っていうか、ただの運行スケジュール通りなだけだと思うけど。まあいいや、走れ!」
泥跳ねで汚れた裾を気にすることもなく、私たちは笑いながら、雨のカーテンの向こう側へ全力で駆け出した。
静寂という名のシェルター
冷房が効いたロビーに足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりついていた不快な湿り気が、心地よい重みに変わる。それは深いプールに飛び込む直前、肺いっぱいに空気を溜めて水面に触れる瞬間の、あの静止した感覚に似ていた。外の世界の喧騒と、皮膚を焼くような八月の熱気が、自動ドア一枚を隔てて遠ざかっていく。
米拉商務旅店 の部屋に入ると、そこには計算された静寂が広がっていた。靴を脱ぎ、裸足でフローリングを踏む。タイルのひんやりとした温度が、火照った足裏から熱を吸い上げてくれる快感。ベッドに身を投げ出すと、パリッと乾いたシーツの冷たさが、まるで冷たい湿布を貼ったときのような心地よさとなって背中に広がった。この感覚があるから、私たちはわざわざ遠くまで足を伸ばすのかもしれない。
部屋の隅にある小さなデスクに、濡れたままのバッグを置く。カサリ、という乾いた音が、静かな空間に小さく反響した。深夜三時にトイレまで歩くとき、自分の足音がどれくらいの距離感で響くか。それを確かめるだけで、自分が今、誰にも邪魔されない場所にいることがわかる。バスルームのドアを開けると、石鹸の清潔な香りが鼻をくすぐった。シャワーの強い水圧が、肩に溜まった一日の疲労を物理的に押し流していく。指の間をすり抜けるお湯の温度が、ちょうどよかった。
窓の外では、台中の街が雨に洗われていた。孔子廟まで歩こうとしたけれど、結局は諦めて、ホテルのシャトルバスに揺られて逢甲夜市へ向かった。あのバスの座席の、少しだけ使い込まれたビニールの感触。運転手さんの、淡々としたけれどどこか安心させる運転のリズム。そういう、ガイドブックには絶対に載っていない断片的な記憶こそが、旅の輪郭を形作るという気がする。私たちは、完璧なプランを立てたはずだった。けれど、実際にはプラン通りにいかなかったことの方が、ずっと心地よかった。
午前二時の、低い周波数
「ねえ、ぶっちゃけ、今回の旅行、最悪だったよね」
部屋の明かりを落とし、間接照明の淡いオレンジ色に包まれて、彼女がぽつりと呟いた。
「あはは、ひどいな。まあ、雨のせいで予定の半分も回れなかったしね」
「でも、あの泥だらけになった靴を見て笑ったとき、なんか、『あ、これでいいや』って思ったんだよね」
「わかる。正解を探して歩くより、一緒に迷ってる時間の方が、なんか、私たちらしいというか」
「……まあ、君が方向音痴すぎるせいもあるけど」
「ちょっと!今いい雰囲気だったのに!もう寝る!」
「あはは、おやすみ。明日こそは、迷わずに朝ごはん食べに行こうね」
静まり返った部屋に、小さく笑い合う声が溶けていく。昼間の喧騒が嘘のように、今はただ、お互いの呼吸の音だけが心地よく響いていた。
カーテンの隙間から、洗いたての空気を孕んだ薄い青色の光が忍び込んできた。
- 逢甲夜市へはホテルのシャトルバスを利用し、湿度の高い外歩きを最小限にするのが正解。
- 朝食後は近隣の孔子廟までゆっくり散歩し、雨上がりの澄んだ空気の匂いを楽しんでほしい。