指先に触れるカートのハンドルが、冬の凍てつく空気を吸い込んで驚くほど冷たかった。1月の白浜は、研ぎ澄まされた透明な空気が肌を刺し、吐き出す息は白く、儚い煙のようにすぐに消えていく。チェックインを済ませ、僕たちは南紀白浜とれとれヴィレッジの不思議な街並みをゆっくりと進んでいた。大理石のロビーを抜けた先に広がっていたのは、現実の地図には載っていない、ノスタルジックで奇妙な異世界の景色だ。石畳を転がるカートの乾いた音が、静寂に包まれた冬の午後に心地よく響き、まるでファンタジーの世界に迷い込んだような高揚感が胸をかすめる。ヴィレッジ8のゲートをくぐると、そこは「洞窟ダンジョン」という名の幻想的な空間だった。壁に描かれた古の壁画や、非現実的なオブジェたちが、僕たちの視線をあちこちへ連れ去っていく。けれど、僕が本当に見ていたのは、冷気にさらされてほんのりと赤くなった君の耳たぶだった。「ここ、本当に日本なのかな」と君が小さく呟いた声が、冷たい空気の中で心地よく震えている。その声は、僕たちの間に流れる心地よい緊張感を、優しく解きほぐしていくようだった。夕食にいただいた、とれとれ市場の新鮮なホタテのバター焼き。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、口の中で弾ける海の塩気と濃厚なバターの甘みが、冬の芯まで凍えた身体を内側からじわりと溶かしていく。それは生命力に満ちた、冬の白浜という土地がくれた最高の贈り物だった。和室調の部屋に戻り、畳のい草の香りと冬の夜の静寂に包まれる。布団に潜り込んだとき、その適度な重みが、僕たちの間にあった微かな緊張感を静かに押し潰してくれた。暖房の効いた部屋に入っても、冷え切った芯まで温まるには、少しだけ時間がかかる。その心地よいラグ、温度がゆっくりと身体に浸透していくまでの時間的な遅延こそが、冬の旅の正体という気がする。急いで答えを出そうとしなくていい。ただ、この温度の変化を一緒に待っていればいい。もしかしたら、僕たちはまだ、お互いの心地よい距離を測りかねているのかもしれない。けれど、この不思議なドームハウスの空間に身を置いていると、そんな不確かささえも、一つの心地よいリズムのように感じられた。ふと、ロビーにあった「王者の椅子」に二人で座ってみたときのこと。威厳たっぷりに構えようとしたけれど、お互いの表情があまりに不釣り合いで、どちらからともなく吹き出してしまった。かっこいい大人でいたかったはずなのに、ここではそんな仮面が、ひどく不自然に感じられた。その瞬間、僕たちの間にあった見えない壁が、ほんの少しだけ低くなった気がした。夜、展望台から見下ろした白浜の夜景は、深い紺色のベルベットに宝石をぶちまけたようにきらめいていた。冷たい風が頬を打つけれど、繋いだ手のひらから伝わる熱だけが、今の僕にとって唯一の確かな真実だった。僕たちは、完璧な答えを持っているわけじゃない。それでも、この異世界のような場所で、不器用に歩幅を合わせようとする時間は、何物にも代えがたい贅沢に思えた。空の色が深い紺色から、ゆっくりと白み始めるまで、僕たちはとりとめのない話を続けた。言葉にならない沈黙さえも、ここでは心地よい音楽のように響いていた。もしかすると、僕たちが本当に探していたのは、目的地ではなく、こういう「迷い込む時間」だったのかもしれない。部屋を出て、再び冷たい外気に触れたとき、不思議と心の中には小さな灯火が灯っていた。それは、誰かに与えられたものではなく、僕たちが一緒に見つけた、ささやかな温もりだった。明日にはまた、それぞれの日常という名の周波数に戻るけれど、この場所で共有した「ラグ」のある時間は、きっと僕たちの血の中に、静かに溶け込んでいるはずだ。
- とれとれ市場で焼きたての海鮮を頬張りながら、冬の潮風に吹かれて歩く時間を大切にしてください。
- ヴィレッジ8の幻想的な空間で、あえて地図を持たずに、二人だけの秘密の場所を探してみてください。