← 戻る ホテルみゆきビーチ

波の音が畳に届くまでの距離

部屋の隅に置いた、静かな記憶

小さな白い貝殻。指先でなぞると、わずかに砂粒がこびりついたざらりとした感触が伝わる。ホテルみゆきビーチのプライベートビーチで拾い上げ、そのまま和洋室の畳の上にそっと置いたもの。最初は海水を含んでひんやりとしていたが、室温に馴染むにつれて冷たさは消え、代わりにい草の乾いた、どこか懐かしい香りが移った。ランプの柔らかな光を反射して、乳白色の表面がぼんやりと発光している。それは、海という巨大な喧騒から切り離され、この部屋の静寂にだけ属することになった、小さな記憶の断片だった。

答えを出さないための、ささやかな対話

「これ、明日には乾いてるかな」
君が畳の上の貝殻を指先で軽くつついた。カチッという、硬くて小さな音が室内に響く。私はベッドの端に腰掛け、その乾いた音を聴いていた。
「かもしれない。というか、乾いたほうがいいのかな」
「どうだろう。濡れたままでも、海を思い出せる気がするし」
君はそう言って、ふらりと畳の方へ歩いた。そのとき、つい習慣でサンダルを履いたまま上がろうとして、慌てて足を止める。あ、という短い声。私たちは顔を見合わせて、同時に小さく笑った。そんな些細な不器用さが、張り詰めていた空気をふわりと緩めてくれた。

境界線の上にいた、不確かな私たち

チェックアウトした後も、あの部屋の不思議なレイアウトが記憶に深く刻まれている。ベッドのしっとりとしたリネンの感触と、畳のざらりとした質感が共存していた和洋室。それは、当時の私たちに似ていると思った。完全に溶け合うわけではないけれど、かといって離れているわけでもない。お互いの領域を認め合いながら、ちょうどいい距離で隣にいる。そんな不確かなバランスを、ホテルみゆきビーチのあの空間は静かに許してくれていた。

九月の恩納村は、まだ夏の熱気が肌にまとわりついていたが、風のどこかに秋の気配が混ざり始めていた。ホテルの外へ出ると、道端に生えた銀色の草が、風に吹かれてさらさらと囁き合っている。遠くの集落からは、秋祭りの太鼓のような、低く地響きのような音が聞こえてきた。その振動が足の裏から伝わり、胸の奥が心地よくざわついた。

大浴場に浸かったとき、肩まで満たしたお湯の重みが、心地よい圧力となって体にのしかかった。視線を上げると、客室から見ていたのとは違う角度の海が広がっている。深い群青色が、ゆっくりと燃えるようなオレンジ色に溶けていくサンセット。その境界線が曖昧に消えていく瞬間、私たちは言葉を交わす必要なんてないのだと気づいた。ただ、同じ温度の空気を吸い、同じ色の空を眺めている。それだけで、十分なはずだ。

夜、ベランダに出ると、空に大きな月が浮かんでいた。月明かりに照らされた波打ち際が、銀色の糸のように細く光っている。私たちは、その光の線をただ黙って眺めていた。もしかしたら、私たちはこれからもずっと、答えの出ない問いを抱えたまま歩いていくのかもしれない。けれど、あの部屋で貝殻を眺めていたときの、あの深い静寂さえあれば、それでいいと思えた。海が満ちては引くように、私たちの感情もまた、緩やかなリズムで繰り返されていくだろう。

波の音が、ゆっくりと畳に染み込んでいく夜だった。

  • 恩納村の路地裏で、ふと聞こえてくる祭りの囃子に耳を澄ませてみる。
  • 和洋室の畳の上で、あえて靴を脱いだまま、波の音だけを数える時間を過ごしてほしい。