← 戻る 黒磯温泉かんすい苑 覚楽

ぬるくなったサイダーと、遠い花火の音

ぬるくなったサイダーと、遠い花火の音

8月の黒磯駅。ホームに降り立った瞬間、熱を帯びた湿った空気が濡れたタオルのように肌にまとわりついた。ジリジリと焼けるアスファルトの匂いと、耳を劈くような蝉の声。誰が一番先に「暑い」と言うか賭けていたけれど、結局は全員同時に口にして、そのまま呆然と立ち尽くした。暑さで思考が真っ白になり、どっちに歩けばいいのかさえ分からなくなっていた。



夕食の湯気が眼鏡を真っ白に曇らせ、目の前の料理がぼんやりとした色の塊に見える。けれど、口に運んだ地元の夏野菜の、弾けるような瑞々しい食感だけは鮮明だった。出汁の香りが鼻を抜け、旬の味が舌の上で踊る。「これ、人生で一番のナスかもしれない」という誰かの呟きから、15分ほど「ナスの正解」について真剣に議論した。くだらないけれど、その時間が何より心地よかった。


「浴衣の着方、絶対どこか間違ってるよ」と、誰かが私の帯に鋭いツッコミを入れた。鏡を見ると、確かに絶妙にずれている。けれど、それを直すのが面倒で、「これが最新のスタイルなんだよ」と強がってみせた。友人たちの呆れた溜息が、心地よいリズムのように耳に届く。お互いの不格好さを笑い合える関係が、この旅の最高の調味料だった。


花火大会の特等席だと思って陣取った場所が、実はただの泥地だったこと。靴がめちゃくちゃに汚れ、歩くたびに「じゅるじゅる」と情けない音が響く。でも、夜空に大輪の花が咲き、光の粒が降り注いだ瞬間、その泥の感触さえも、私たちが一緒に「作戦失敗」した証拠のように思えて、なんだか誇らしくなった。


黒磯温泉かんすい苑 覚楽の門をくぐった瞬間、打ち水された石畳の冷たさが、足首からじわっと伝わってきた。那須高原の凛とした空気が、火照った肌をゆっくりと鎮めていく。外の喧騒が不意に遠い国の出来事のように消え、静寂が心地よく耳を包み込む。ここでは時間が、都会とは違う緩やかな速度で流れているようだった。


温泉で芯まで温まった後、裸足で踏んだタイルのひんやりとした温度がちょうどいい。お風呂上がりに食べたアイスが、指先から体温を奪い、喉の奥を鋭く冷たく締め付ける。誰が一番多く食べるか競い合っていたけれど、最後にはみんな、静かに夜風に当たっていた。言葉にしなくても、同じ温度を共有していることが分かった。


翌朝、玄関に置いていた靴を見たとき、思わず息を呑んだ。昨日の泥の跡が完全に消え、新品のようにピカピカに磨かれていたからだ。誰がやったのか、誰に聞くでもなく、私たちは「誰かが夜中に魔法をかけたんだ」ということにした。そういう名もなき優しさが、この宿の空気に静かに溶け込んでいる。


部屋の隅で、誰かが小さく欠伸をした。明日にはまた、それぞれの生活という慌ただしいリズムに戻らなければならない。でも、今はまだ、この濃密な静寂の中に浸っていたい。失ったものがあるからこそ、今ここにある静けさが、心地よい重さを持って心に沈んでいく。

ぬるくなったサイダーの泡が、ゆっくりと消えていった。

  • 黒磯駅からの10分間、あえてゆっくり歩いて町の空気を吸ってみて。
  • 浴衣に着替えたら、そのまま近所の公園まで散歩するのがおすすめ。