← 戻る 那須高原の宿 山水閣

浴衣の袖が長すぎて、月がちょうどいい夜だった

浴衣の袖が長すぎて、月がちょうどいい夜だった

指先に触れる古い廊下の木肌は、少しだけひんやりとしていて、何十年分もの誰かの歩いた記憶が染み込んでいるような、深い色をしていた。鼻をくすぐるのは、雨上がりの土の匂いと、どこか懐かしい畳の香り。那須高原の宿 山水閣 / Sansuikaku Hotel Nasu Highlandに足を踏み入れたとき、まず耳に届いたのは、完全な静寂ではなく、その静寂を心地よく乱す子供たちの高い笑い声だった。昭和初期の木造建築が持つ、包容力のある温もりが、旅の緊張をゆっくりと解いていく。

なぜ、この静寂に家族を連れてきたのか

家族で旅をするとき、私たちはつい「完璧な調和」という幻想を探してしまう。けれど、実際には誰かが機嫌を損ね、誰かが忘れ物をし、誰かが予想外の方向に走り出す。そんな不協和音の連続こそが旅の正体だ。けれど、この宿の「二間客室」という空間に身を置いたとき、ふと思った。この物理的な「仕切り」こそが、家族にとって一番必要な距離感なのだと。木々に包まれる中庭から差し込む柔らかな光が、部屋の境界線を淡く照らしている。

一つの部屋に全員で押し込められるのではなく、隣の部屋に子供たちがいる気配を感じながら、大人は少しだけ深い溜息をつく。それは、墨一滴が白い和紙に落ちて、ゆっくりと、けれど確実に滲み出していくプロセスに似ている。最初は鋭い点だった家族の騒がしさが、古い木造建築の静けさという水に溶け出し、輪郭をぼかしながら、心地よい淡いグレーに変わっていく。離れているけれど、繋がっている。そんな曖昧な境界線があるからこそ、私たちは再び同じテーブルを囲むとき、素直に笑い合えるのかもしれない。そういう気がした。

子供たちが一番に指差したのは、きっとあのお湯だった

大丸温泉の湯は、驚くほど無色透明で、まるで空気そのものが液体になったみたいに澄んでいた。湯気に包まれながら、「見て!足の指が透けてるよ!」と大はしゃぎして、お湯の中で自分の足の指をじっと観察している子供たち。その純粋な驚きを見ていると、大人が気にする「効能」や「贅沢」なんて、ここではどうでもいいことのように思えてくる。ただ、お湯の温度がちょうどよくて、肩の力が抜けていく。肌にまとわりつくぬるりとした感触が、心の中の強張りを一つひとつ丁寧に解きほぐしていく。その単純な快楽こそが、旅の正体なのかもしれない。

夕食に運ばれてきた山里懐石は、那須の土が育てた野菜たちの、力強い味がした。特に、口の中でほどける根菜の甘みは、飾らないけれど誠実で、食べているうちに心の中のトゲがゆっくりと溶けていく感覚があった。器から立ち上る湯気と、出汁の芳醇な香りが、食卓を温かな空気で満たしていく。

ふと見ると、次男が自分に不釣り合いなほど大きな浴衣を着て、裾を何度も踏んづけては「おっとっと」とよろけている。その姿があまりに滑稽で、誰かが吹き出した。完璧な家族写真なんて撮れなくても、この、裾を引きずって歩く不器用な時間こそが、後で思い出したときに一番温かい色をしているはずだ。そう確信した瞬間があった。

帰る時に、胸に残っているのはどんな色だろう

9月の那須は、空気が少しずつ透明度を増していく。那須高原の宿 山水閣 / Sansuikaku Hotel Nasu Highlandの周りで風に揺れるススキの穂が、銀色の波のように光っていた。夜、ふと外を眺めると、雲の切れ間から月が顔を出していた。その光は、派手ではないけれど、すべてを静かに肯定してくれるような、優しい温度を持っていた。ひんやりとした夜風が頬を撫で、季節が移ろう音だけが聞こえてくる。

旅の終わり。チェックアウトのとき、子供たちは名残惜しそうに、廊下の木の感触を最後にもう一度確かめていた。もしかすると、私たちは何か特別な答えを探してここに来たのではなく、ただ「一緒にいて、心地よい」という当たり前の感覚を、もう一度思い出したかっただけなのかもしれない。騒がしさは消えない。けれど、それはもう不協和音ではなく、家族という一つの楽曲を構成する大切なリズムに聞こえていた。不完全なままでいい。むしろ、その隙間があるからこそ、そこに新しい思い出が流れ込んでくる。そう思うと、帰り道の車のなかで、また誰かが騒ぎ始めても、今度は少しだけ微笑んでいられる気がした。

靴を履くとき、子供が小さく「また来たいね」と呟いた。

  • 9月の那須は朝晩が冷えるため、子供には薄手の羽織ものを。ススキの原を歩く際は、歩きやすい靴を。
  • 殺生石まで足を伸ばし、大地の呼吸を感じてほしい。日常の凝り固まった思考が、ふっと緩むはずだ。