← 戻る 那須高原の宿 山水閣

君の足音が、少しだけ遅れて届くところ

君の足音が、少しだけ遅れて届くところ

濡れた葉から、冷たい雫がひとつだけ手首に落ちた。ほんの一瞬、皮膚が引き締まる感覚があって、それから自分が今、五月の那須に立っていることを思い出した。空気はまだ少しだけ冬の名残を抱えていて、けれど風の中には、どこか遠くで咲いている藤の花の甘い香りが混じっている。私たちは、あえて綿密な計画を立てずにここへ来た。目的地に辿り着くことよりも、辿り着くまでの、あの言いようのない緊張感と期待が混ざり合った、震えるような空気が好きだったから。

時を刻む琥珀色の記憶

廊下の古い木材:長い年月を経て深く色づいた、琥珀色の光沢を纏う木肌。指先でなぞると、ひんやりとした滑らかさと、微かな木の呼吸が伝わってくる。歩くたびに低く響く「ギィ」という軋みは、静寂に溶け込む心地よいリズムを刻んでいる。

足音の空白に耳を澄ませて

「ねえ、この宿、私たちの会話をじっと聞いてる気がしない?」

薄暗い廊下に、格子窓から斜めの光が差し込み、舞い上がる埃が金色の粒のように踊っている。君が、少しだけいたずらっぽく笑ってそう言った。私は、足裏に伝わる古い木の感触を確かめながら、「どういうこと?」と聞き返す。私の声が、静まり返った廊下に小さく反響した。

「だって、私が一歩歩いたあとに、少しだけ遅れて音が鳴るでしょ。まるで、私たちの歩幅を測って、わざとタイミングをずらしているみたいに」

私たちは、そのまましばらくの間、わざとゆっくりと歩いてみた。一歩、また一歩。音が鳴るまでの、あのわずかな空白。そのラグのような時間が、なんだか心地よかった。もしかすると、私たちはまだ、お互いの完璧なリズムを分かっていないのかもしれない。けれど、その「ずれ」があるからこそ、隣にいる相手の存在を、より鮮明に意識できる。廊下の隅から漂う、古い蝋と杉の香りが、私たちの時間をゆっくりと停滞させていた。

完璧ではない二人のための調律

チェックアウトして宿を離れたあと、私の記憶に一番強く残ったのは、あの廊下の木の感触と、音が鳴るまでのわずかな時間だった。私たちはつい、相手と完璧に同期しようとしてしまう。同じタイミングで笑い、同じ意見を持ち、同じ速度で歩こうとする。けれど、本当の意味で誰かと繋がっているというのは、完璧に重なることではなく、心地よい「ずれ」を許容できることなのだと思う。

昭和初期の木造建築という、時を止めたような空間を持つ那須高原の宿 山水閣。そこには、効率や速さとは無縁の、緩やかな時間が流れていた。専用風呂付き客室で、湯気の中に君の横顔をぼんやりと眺めていたとき、あるいは山里懐石の山菜の心地よい苦味を分かち合ったとき、私たちは自分たちの不器用さを、そのまま受け入れることができた。那須の森の木々が、それぞれ異なる方向に枝を伸ばしながら一つの深い緑を作っているように、私たちもまた、不揃いなままでいいのだと、この場所が教えてくれた気がする。

あの古い木材が持っていた、反応の遅さ。それが、私たちに「待つこと」の贅沢さを教えてくれた。相手が音を立てるまで、自分の足元をじっと見つめる時間。その空白があるからこそ、次に届く音が、より鮮明に、より愛おしく感じられる。今でも、君と歩くとき、わざと少しだけ歩幅をずらしてみる。すると、君がふっとこちらを振り返る。そのとき、私たちの間には、あの宿で感じたのと同じ、温かくて静かな空白が流れている。それは、答えを急がない二人にだけ許された、至福の時間なのだ。

君が不意に私の手を握ったとき、指先の温度がちょうどよかった。

  • 五月下旬、那須御用邸の周辺で、風に揺れるバラの香りをゆっくりと辿ってみてほしい。
  • 宿の廊下を歩くときは、あえて足音に耳を澄ませ、相手とのリズムの「ずれ」を楽しんでみることをおすすめする。