← 戻る ホテルラフォーレ那須

誰かが忘れた傘と、3月の冷たい空気

凍てつく空気と、誰の鍵か分からない混乱

車のドアを開けた瞬間、肺の奥まで突き刺さるような鋭い冷気が入り込み、意識を強制的に覚醒させた。3月の那須は、まだ冬がしがみついている。アスファルトを転がるスーツケースの車輪が、ガガガと不規則なリズムを刻んでいて、それが今の私たちの、まとまりのない状況にぴったりだった。「予約、誰が確認したっけ?」そんな些細なことで言い合いながら、私たちはホテルラフォーレ那須のロビーへと吸い込まれていった。冷え切った指先で受け取ったルームキーの、硬く冷たい金属的な感触だけが、唯一の正解のように感じられた。結局、部屋に辿り着くまでに誰かの折り畳み傘を置き去りにしていたが、誰もそれを拾いに戻ろうとはしなかった。

那須の高原が教えてくれた、いくつかの不器用なこと

ロフトベッドという名の垂直な迷宮
素足で踏んだ木の床の、ひんやりとした心地よさに浸っていたのも束の間。ロフトベッドに登ろうとした瞬間、私たちの「大人の余裕」は霧散した。梯子でバランスを崩し、もつれ合う身体。効率とは程遠い不協和音のような時間だったが、それがたまらなく心地よかった。

乳白色の湯と、止まらない冗談のコントラスト
視界を白く塗りつぶす温泉に身を委ねると、肌にまとわりつくお湯が温かい繭のように感じられた。静寂に包まれるはずの空間で、誰かの昔の失敗談に爆笑する。今の私たちには、静寂よりもこの騒がしい温度が必要だったのだ。

桜の開花予想という名の、心地よい嘘
「もう咲いているはず」と信じて出かけた先で出会ったのは、まだ硬く閉ざされた蕾だけだった。ガイドブックを盲信した私たちの完敗だ。けれど、期待外れの景色を眺めて「まあ、いいか」と肩をすくめたとき、心に溜まっていた強張りがふっと解けた。

木の壁が吸い込む、深夜の笑い声
コテージのリビングに集まり、ボードゲームに興じた。わざとルールを間違える誰かに、激しいツッコミが飛ぶ。杉の香りが漂う木の壁は、私たちの騒がしさを優しく吸収し、心地よい反響として返してくれた。深夜3時、トイレまで歩く数歩の距離さえも、贅沢な旅路に感じられた。

リストの外側にある、名前のない時間

結局、一番記憶に刻まれたのは、計画書には一行も書かれていなかった空白の時間だった。深夜、全員が眠りに落ちる直前、誰からともなく始まったとりとめのない会話。リネンのシーツの少しざらついた感触を指先でなぞりながら、私たちは自分たちが何を恐れ、何を欲しているのかを、ぼそぼそと話し合った。部屋の隅で低く鳴り続ける冷蔵庫の振動が、かえって私たちの孤独を肯定してくれる気がした。誰にも邪魔されない、ただそこに在るだけの時間。お互いの欠落を埋め合わせるのではなく、ただ隣に並べて置いておくことで得られる、不思議な安心感。翌朝、カーテンの隙間から差し込んだ光が、宙に舞う埃を白く照らしていたとき、私はこの不完全な旅を、ずっと前から知っていたような気がした。大人たちが無理に「正解」を演じなくていい場所が、ここにはあった。

朝露に濡れた森の深い匂いが、まだ眠い意識を静かに呼び起こす。

  • 朝7時、誰もいないテラスで、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んでみてほしい。
  • 地元の滋味あふれる料理を、会話の合間にゆっくりと味わう贅沢を。