「ここ、意外と静かだね」
「ここ、意外と静かだね」
君が靴を脱ぎながら、ふとそう呟いた。リッチモンドホテル名古屋新幹線口のドアを閉めた瞬間、名古屋駅前のあの激しい喧騒が、まるで誰かがスイッチを切ったみたいに消えた。
「本当だ。さっきまであんなに人が多かったのに」
僕たちはどちらからともなく、まだ荷物を置かないまま、部屋の真ん中で少しだけの間を空けて立った。空調から流れる微かな風が、五月の少し湿った肌を優しく撫でていく。その静けさが、心地よくて、少しだけ照れくさかった。
街の呼吸を脱ぎ捨てる場所
駅からの徒歩七分という距離は、僕たちにとってちょうどいい緩衝地帯だった。街の熱気をゆっくりと冷まし、自分たちの歩幅を取り戻すのに十分な時間。道端に咲くバラの香りが不意に鼻をくすぐり、視界に入る新緑の濃い緑が、心の中のざわつきを塗り替えていく。そんな景色を横目に歩いていると、僕たちの間にあった小さな緊張も、いつの間にかほどけていた気がする。
部屋に入ってまず指先が触れたのは、真っ白なデュベスタイルのベッドだった。パリッとしたシーツの質感が心地よく、そこに体を預ければ、今日一日の歩いた距離がゆっくりと溶け出していく感覚がある。空気清浄機が低く、一定のリズムで唸っている。その音が、かえってこの空間の静寂を際立たせていた。 POLAのアメニティから漂う控えめな香りが、指先に残っている街の匂いを丁寧に洗い流してくれる。
翌朝、レストランで出会った「名古屋めし」の土手煮の香りは、まだ半分眠っている意識を優しく揺り起こしてくれた。濃厚な味噌の味が舌の上に広がり、温かいご飯と一緒に飲み込む。そんなありふれた食事が、二人で囲むだけで、特別な儀式のように感じられた。窓から差し込む五月の光が、コーヒーの湯気に溶けて、テーブルの上に柔らかな陰影を作っている。
ふと気づくと、君が慣れない手つきで客室にあるズボンプレッサーを使おうとして、少しだけ格闘していた。生地をどうセットすればいいのか分からず、首を傾げているその横顔が可笑しくて、僕は小さく笑った。君もそれに気づいて、照れくさそうに肩をすくめる。そんな、計画にはない、名前のない時間が、この旅で一番大切だったのかもしれない。
僕たちはまだ、お互いの心地よい距離を探している途中なのだろう。けれど、この部屋の静けさと、清潔なリネンの香りと、窓から差し込む穏やかな光があれば、それで十分だという気がする。足りないものは、きっとこれから二人でゆっくりと埋めていけばいい。ここは、ただそこに在るだけで、僕たちの呼吸を合わせてくれる場所だった。
指先に残るリネンの感触を抱いたまま、私たちはゆっくりと街へ戻る。
- 朝食の土手煮を、あえてゆっくり味わってみない?
- チェックアウトまで、あえて何も決めない時間を一緒に過ごそう。