← 戻る ベッセルホテルカンパーナ名古屋

左足の靴下だけが、どこかへ消えた朝

黄金色の味噌と、賑やかな朝の不協和音

カチャリ。誰かがスプーンを皿に落とした高い音が、ホールの高い天井に反響して心地よく弾ける。午前7時、ベッセルホテルカンパーナ名古屋の朝食ビュッフェは、すでに小さな戦場のような活気に満ちていた。空気の中には、名古屋特有の濃い味噌の香ばしい匂いと、オーブンで焼きたてのパンが放つ甘い香りが幾重にも重なり合って漂っている。長男は「全部食べたい!」と目を輝かせ、プレートの上に山盛りにした名古屋めしの数々を誇らしげに運んできた。その横で、次男がふいにオレンジジュースをテーブルにこぼし、鮮やかなオレンジ色の液体がゆっくりと白いクロスに染み込んでいく。私はそれを慌てて拭き取りながら、ふと思った。旅というものは、いつもこうして予期せぬ汚れや小さな混乱から始まるのかもしれない。

大人が啜るコーヒーの深い苦味が、まだ眠い意識をゆっくりと呼び覚ます。子供たちが騒ぐたびに、私の心の中にある「旅を完璧に遂行しなければ」という強迫観念が、きつく結ばれた結び目のように胸のあたりで凝り固まっているのが分かった。けれど、隣で口いっぱいにご飯を頬張り、不格好に膨らんだ頬を揺らして笑う子供たちの姿を見ていると、その結び目がほんの少しだけ、ふわりと緩んだ気がした。正解なんてどこにもない。ただ、この騒がしいリズムの中に身を置いていることだけが、今の私たちにとっての唯一の真実なのだ。皿がぶつかり合う金属音、子供たちの無邪気な笑い声、そして遠くで聞こえるスタッフの丁寧な会釈の声。それらが重なり合って、家族という名の心地よい不協和音を奏でていた。

コンビニの袋が奏でる、不完全な旅の調べ

アスファルトから立ち上がる、9月特有のむっとした熱気と湿り気が肌にまとわりつく。名古屋城へと向かう道すがら、私たちは一度足を止めて、ホテルから徒歩3分のコンビニに駆け込んだ。プラスチックの袋が風に煽られてカサカサと鳴る。その乾いた音は、どこか落ち着かない旅の途中の高揚感に似ていた。長男が「あっちに何かある!」と指差した方向へ、私たちは導かれるままに歩き出す。予定していたルートとは少し違うけれど、それでいい。むしろ、迷い込んだ路地裏で見た名もなきススキが、秋の訪れを静かに告げていた。黄金色の穂が風に揺れる光景に、ふと心が凪いでいくのを感じた。

道端で買った冷たい飲み物を飲み干し、子供たちの額に浮かんだ汗を丁寧に拭う。私の手の中にある心の結び目は、もうかなり緩んでいた。もしかすると、旅の醍醐味とは、計画通りにいかないことを許容し、その隙間に舞い込む偶然を楽しむことにあるのかもしれない。次男がふいに「お城の中にはお化けがいるの?」と真剣な顔で聞き、私たちは正解が出ない問いについて、しばらくの間、大真面目に議論した。誰が正解を出す必要もない。ただ、歩きながらとりとめもない会話を交わす。その時間だけが、贅沢に消費されていく。足元のサンダルが歩くたびに小さく音を立て、私たちはゆっくりと、けれど確実に、この街の温度と呼吸に馴染んでいった。

氷の冷たさと、素足に伝わる静寂のぬくもり

夜10時。大浴場で芯まで温まった身体を、部屋に戻った瞬間の冷たい空気が心地よく締め付ける。そこには靴を脱いで過ごせる、家のような静寂が待っていた。裸足で踏みしめるフロアの滑らかな感触。その適度な温度が、一日中張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。2階のお休み処でもらったウェルカムアイスキャンディーを、子供たちと一緒に口に運ぶ。舌の上で溶ける鋭い冷たさと、濃厚な甘い香りが、一日の疲れを静かに塗り替えていく。子供たちはいつの間にか、シモンズ社製ベッドの心地よい弾力に身を任せ、深い眠りの海へと落ちていた。

私は一人、部屋の明かりを落として、窓の外に広がる名古屋の夜景を眺める。宝石を散りばめたような光の粒を眺めていると、もう心の中に結び目なんてどこにもなかった。ただ、心地よい一本の糸のように、家族の記憶がゆるやかに繋がっている感覚だけがある。エアウィーヴマットレスに身体を沈めると、自分の呼吸が、部屋の静寂と完全に同期していくのが分かった。明日になれば、また靴下の一方が消えたり、誰かが泣き出したりするだろう。けれど、そんな不完全で不自由な時間こそが、後になって一番大切な宝物になる。暗闇の中で、子供たちの規則正しい寝息だけが、世界で最も確かなリズムとして耳に届いていた。

不自由で愛おしいこのリズムを、ずっと抱きしめていたい。

  • 名古屋めしのビュッフェでは、ぜひ小ぶりな器を使い分けて、少しずつ色々な味を試してほしい。
  • 大浴場から上がった後、家族でウェルカムアイスを食べる時間は、何よりの贅沢になるはずだ。