← 戻る 稲佐山観光ホテル

街の灯りが、こぼれた塩みたいに見えた

長崎の路地裏で繰り広げられた、地図を巡る大論争

「ちょっと待って、絶対こっちじゃないって!地図見てよ!」
「見てるよ!北だって書いてあるじゃん!」
「北?今、海に向かって歩いてるよね?君の言う北はどっちの次元の話?」
誰かが吹き出した。1月の長崎の空気は、肺の奥まで刺さるように凛冽で、吐き出す息が白く濁って視界を遮る。鼻先を真っ赤にした友人が、悔しそうにスマホを振り回していた。私たちはもう20分も、同じ石畳の路地をぐるぐると回っていた。
「賭けてもいいけど、このままだと初詣の前に凍死するね」
「いいよ、私が死んだら私の分までおみくじ引いてよ。大吉以外は認めないから!」
そんなくだらない言い合いをしながら、私たちは誰が一番の方向音痴かという不毛な議論に、貴重な時間を使い果たしていた。冷たい風が吹き抜けるたびに、誰かが大声で笑い、その声が静かな街並みに心地よく反響していた。

凍てつく心を溶かす、琥珀色の安らぎ

ようやく辿り着いた稲佐山観光ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、外の刺すような冷気が嘘のように消え去った。温かな空気がベルベットのように肌にまとわりつき、冷え切った指先がゆっくりと解けていく心地よい痺れに包まれる。案内されたハーバービューツインのドアを開けると、そこには1月の低い太陽が街を淡いオレンジ色に染め上げる、静謐な港の景色が広がっていた。

部屋に入って真っ先に始まったのは、誰が一番いいベッドのポジションを確保するかという、小学生のような争いだ。ふかふかのシーツに飛び込めば、布地のひんやりとした感触の直後に、体温がじわりと伝わり、心まで緩んでいく。誰かがわざと私の足の上に自分の足を乗せて「ここ、私の陣地ね」と生意気に笑う。そんな騒がしいやり取りさえ、この部屋の柔らかな光の中では心地よいリズムに聞こえた。

その後、大浴場へ向かった。脱衣所のひんやりとした空気から、湯船に体を沈めた瞬間のずしりとくる重量感への変化。ちょうど良い温度のお湯が、凝り固まった肩の筋肉をゆっくりとほどいていく。湯気で視界がぼやける中、隣で誰かが「あー、生きてるわ」と情けない声を漏らしていた。豪華な設備以上に、ただ「お湯が熱くて気持ちいい」という単純な事実に、私たちは心底救われていたのかもしれない。

夕食に出た出島会席では、芳醇な出汁の香りが鼻をくすぐり、地元の食材を活かした煮物の絶妙な甘みが、一日中の疲れを優しく洗い流してくれた。食後、ふと気づくと、誰かが私の皿の料理をこっそり盗んで食べていた。それを激しくツッコミ合う時間は、どんな観光名所を巡るよりも、私たちに「旅をしている」という確かな実感を与えてくれた。

夜景の海に溶け出す、本当の言葉

「ねえ、見てよ。本当に宝石をぶちまけたみたい」
屋上テラスに上がると、そこには世界的に有名だという長崎の夜景が、深い紺色の海に浮かぶ光の粒のように広がっていた。昼間の喧騒が嘘のように、ここだけは空気が澄み渡り、静寂が心地よい。隣に座った友人が、小さく肩をすくめた。
「さっきまであんなに言い合ってたのに、これ見ると全部どうでもよくなるね」
「っていうか、君の方向音痴っぷりは、やっぱり許せないけど」
「あはは、ひどいな。でも、まあ、いいか」
私たちはしばらくの間、どちらからともなく口を閉ざした。沈黙が、心地よい毛布のように二人を包み込む。誰かが何かを埋めようとしなくていい、ただ一緒に同じ光を見つめているだけで十分な時間。心臓の鼓動が、ゆっくりとしたテンポで刻まれているのがわかる。そんな静かな時間の中で、私たちは自分たちが大人になろうとして、でもなりきれずに、もがいている同志なのだと気づいたのかもしれない。

「来年もまた、誰かが迷子になる旅をしようよ」
「いいよ。その代わり、次は私が地図を持つから」
「絶対無理でしょ」
小さな笑い声が、冬の夜空に溶けて消えていった。

窓の外では、街の灯りが静かに、けれど確かに瞬いていた。

  • 稲佐山観光ホテルの屋上テラスは、夜景を独占できる特等席。深夜に友人と思い出話に花を咲かせて。
  • 1月の長崎は底冷えするため、大浴場で温まった後の保湿ケアを忘れずに。