「本当に歩きすぎたかも」
「本当に歩きすぎたかも」
君が少しだけ肩をすくめて笑った。十月の長崎の風は、しっとりと湿り気を帯びていて、頬を撫でる温度が心地いい。思案橋の路地裏には、どこからか漂うお酒の匂いと、誰かが奏でる音楽が混ざり合い、街全体がひとつの大きな曲を奏でているようだった。
「でも、あの路地の匂い、好きだったな」
僕がそう答えると、君は小さく頷いた。僕たちはどちらからともなく、リッチモンドホテル長崎思案橋の入り口へと吸い込まれていった。
呼吸の音が聞こえ始める距離
ロビーに足を踏み入れた瞬間、厚みのあるカーペットが、街で使い古した靴音を静かに飲み込んでいった。外の世界では、互いの言葉をかき消さないように少し声を張り上げていたけれど、ここでは囁き声さえも鮮明に届く。現代的な機能性と、どこか昭和の港町のような懐かしさが同居する空間に、ようやく辿り着いたという安堵感が広がった。
案内されたデラックスダブルルームのドアを開けると、真っ白なリネンが整えられたベッドが、凪いだ海に浮かぶ白い島のように中央に鎮座していた。指先で触れたシーツはひんやりとしていて、それでいて肌に吸い付くような滑らかさがある。僕たちは荷物を置いたまま、その端に腰を下ろした。しばらくの間、何も話さなかった。ただ、隣にいる君の体温が、ゆっくりと空間に溶け出していく。この空白は、無理に埋める必要のない、心地よい重さを持っていた。間接照明の柔らかな琥珀色の光が、僕たちの影を壁に長く伸ばしている。
その後、二人で大浴場へ向かった。脱衣所で脱ぎ捨てた服と共に、今日一日の疲れが床に落ちていく。湯船に体を沈めた瞬間、じわっと熱いお湯が皮膚の隙間に浸透し、強張っていた肩の筋肉がゆっくりとほどけていくのがわかった。立ち上る白い湯気に視界がぼやけるなか、隣にいる君の輪郭だけが柔らかく浮かび上がっている。心拍数がゆっくりと落ち着き、互いの呼吸が同期していくのを待つだけの贅沢な時間が流れる。ここでは、誰に気を使う必要もない。ただ、お湯の温もりに身を任せ、心まで解きほぐされていった。
部屋に戻った後、買っておいたカステラを半分に分けた。指先で触れると、表面の焼き色のついた部分がわずかにザラついていて、中は驚くほどしっとりとしている。口に運べば、卵の濃厚な甘みが舌の上でゆっくりと溶け、底に敷かれた粗いザラメが時折、心地よい刺激をくれる。甘い香りが部屋を満たし、外の賑やかな夜の気配が、遠い国の出来事のように感じられた。僕たちはまだ、お互いのことをすべて知っているわけではないし、これから先、うまく歩幅を合わせられるかもわからない。けれど、この静かな空間で、同じ甘さを共有している時間は、何よりも確かなものに思えた。不確かさこそが、今の僕たちにとっての心地よさなのかもしれない。
カーテンの隙間から漏れる思案橋のネオンが、白い壁に淡い光の線を引いていた。
- 明日の朝は、少しだけ早起きして、誰もいない路地を二人で散歩してみない?
- お風呂上がりに温かい飲み物を淹れて、ゆっくりと本を読み合う時間を過ごそう。