← 戻る ひのき亭 牧水

硫黄の匂いと、コンビニ袋の冷たさ

真夜中の空腹と、小さな冒険の始まり

鼻の奥を鋭く刺すような冷たい空気と、街全体を濃密に包み込む硫黄の匂い。三月の草津は、まだ冬がしがみついているかのように冷え切っていた。湯畑まで二百メートルという距離は、昼間に歩けばほんの一瞬のはずなのに、深夜二時の深い闇の中では、まるで別の世界へ遠征しているかのような錯覚に陥らせる。誰が言い出したのかはもう定かではないが、私たちは「完璧な夜食」を求めて、コンビニへと向かうという小さな冒険に出た。指先が凍えて感覚がなくなるまで、私たちは桜の開花予想について熱っぽく言い合い、誰が一番正確に的中させるかという、どうでもいい賭けに興じていた。ビニール袋の中でカサカサと乾いた音を立てるお菓子と、結露して冷たいペットボトル。その物理的な冷たさが、かえって私たちの内側にある高揚感を鮮やかに際立たせていた。ひのき亭 牧水の入り口に戻ったとき、冷え切った頬は夜風に震えていたけれど、心の中には不思議な連帯感が温かく漂っていた。

畳の上にこぼれた、とりとめもない本音たち

「ねえ、信じられないと思うけど、今年の桜、予想より一週間は早い気がしない?」

畳の上に散らばったコンビニのお菓子を、私たちは遠慮なく奪い合う。誰かが持ってきた地元の銘菓のパッケージが、指先の冷えのせいかなかなか開かず、三人でかりそめに力を合わせて引っ張るという、大げさな騒動が起きた。結局、中身が派手に飛び散って、誰かが「あーあ」と呆れたように呟いたけれど、それがなんだかおかしくて、私たちは同時に吹き出した。笑い声が、和風の静かな部屋に心地よく響く。

「っていうか、昼間に見たひな祭りのお人形、あんなにたくさん並んでたら、どっちが人間かわからなくなるよね」

「それは言い過ぎでしょ。でも、あの静まり返った空気感は、ちょっとだけ怖かったかも」

「賭けてもいいけど、明日起きたら全員、春分の日だからっていう言い訳をして二度寝するよね」

「あ、それ、確定でいいと思う」

私たちは、わざと不便なルートで歩いたことや、旅館の階段で誰が一番先に息を切らしたかという、どうでもいい失敗を笑い合った。正直に言えば、計画していた「完璧な旅」なんて、この部屋の散らかったお菓子の袋を見た瞬間に消えていた。けれど、それでいい。むしろ、その方がいい。誰にも見せない、私たちだけの不格好で贅沢な時間。それは、まるで温泉の湯気に包まれているときのように、心の鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの自分でいられる瞬間だった。このとりとめもない会話こそが、この旅で一番「私たちらしい」記憶になると確信していた。

満たされた胃袋と、檜がもたらす静寂

最後の一片のお菓子が消え、部屋には再び静寂が戻ってきた。けれど、それは寂しい静けさではなく、心地よい充足感を伴った沈黙だ。ひのき亭 牧水の部屋に深く漂う、ほのかな檜の香りが、興奮して昂っていた神経をゆっくりと鎮めていく。貸切風呂から上がったあとの、肌に残るかすかなぬるま湯の感覚と、室内の温もりが混ざり合い、意識が心地よく溶けていく。外の冷気と室内の温もり。その境界線にある「ラグ」のような時間が、私たちの間にゆったりと流れていた。まるで遠く離れた場所から届く電話の音声のように、言葉と意味の間に小さな空白がある。その空白があるからこそ、私たちは無理に何かを埋める必要がなく、ただそこに在ることを許されていた。布団に入ると、厚い掛け布団が身体を優しく包み込み、外界の冷たさが遠い記憶のように消えていった。明日になればまた、桜の予想や旅の行程について言い合うのだろうけれど、今はただ、この静かな周波数に身を任せていたい。意識が遠のく直前、隣で誰かが小さく寝息を立て始めた音が聞こえた。その規則正しいリズムが、どんな音楽よりも正確に、今の私たちの幸福感を物語っていた。

窓の外で、夜風が静かに檜の枝を揺らしている。

  • 草津の地元の銘菓。パッケージを開けるのに苦戦する時間まで含めて楽しんでほしい。
  • 温かいほうじ茶。冷えた指先を温めながら、深夜のとりとめもない会話に添えて。