硫黄の香りと、誰が予約したか分からない喧騒
4月の草津の空気は、まだ冬の名残を孕んで鋭い。鼻腔をくすぐる濃密な硫黄の香りが、私たちがここに着いたことを誰よりも早く告げていた。誰が予約したのかさえ曖昧なまま、重いスーツケースをアスファルトに引きずり、ガガガと騒がしい音を立ててロビーへ滑り込む。友人たちの笑い声が重なり合い、心地よい不協和音となって空間を埋めていく。「誰が一番に温泉に入るか」という、大の大人がやるにはあまりにどうでもいい賭けに興じながら、指先の冷たさを忘れるほどに、期待感だけが静かに、けれど熱く膨らんでいた。お宿 木の葉が教えてくれた、心地よい諦め方
畳の回廊という名の心地よい迷路 全館畳敷きという贅沢な空間。靴下で歩くたびに「カサッ」と鳴る微かな音が、静まり返った廊下に響き、まるで秘密結社の集会に向かう忍者の集団になった気分で、誰からともなくクスクスと笑いが漏れた。足裏に伝わる畳の適度な弾力が、旅の緊張で強張っていた心をゆっくりと解きほぐしていく。23個の風呂を制覇しようという無謀な挑戦
「全部入れば完璧な旅だ」という誰かの号令に、意気揚々と挑んだものの、3つ目の湯船で全員が白旗を上げた。お湯の温度が皮膚に馴染み、思考が白く塗りつぶされていく快感に屈したとき、私たちは「心地よい諦め」という最高の贅沢を学んだ。完璧主義を捨てて湯船に身を任せる快楽は、何物にも代えがたい。
木の葉御膳がもたらす、視界の喪失と幸福
運ばれてきた小鍋から立ち上る真っ白な湯気が、眼鏡をあっという間に曇らせ、世界を白い膜で覆い隠した。「何も見えない!」と笑い合いながらも、出汁の芳醇な香りが先に鼻腔を突き抜け、理屈ではなく本能が「正解だ」と叫ぶ。口の中で温度がゆっくりと広がる感覚は、心まで温かく解きほぐしてくれる。
湯畑までの、震えるけれど愛おしい距離
シャトルバスを降りてからの数分間、4月の夜風が容赦なく頬を叩く。寒さで口数は減ったが、肩を寄せ合い、隣で誰かが「やっぱりここに来て正解だったね」と小さく呟いたとき、冷たい空気があるからこそ温泉の温もりが鮮明な輪郭を持って刻まれることを知った。凍える指先が、お互いの体温を再確認させてくれる。
リストの外側にあった、光の屈折と静寂
観光プランにはなかったけれど、一番記憶に深く沈み込んでいるのは、深夜の部屋で交わしたとりとめもない会話だ。お宿 木の葉の和風ツインにある低いベッドに深く身を沈めると、外の静寂が耳の奥まで満たしていく。障子越しに差し込む街灯の光が、まるで水中で光が屈折するように、淡く不規則な形に部屋の隅々まで広がっていた。「来年もまた、このメンバーで来ようか」。普段なら照れくさくて冗談で流すはずの言葉が、温泉で緩んだ心に、すっと馴染んでいった。名所を効率よく回ることよりも、ただそこにいて、お互いの不器用な呼吸が重なる時間の方が、ずっと贅沢だった。光がゆっくりと移り変わるのを眺めながら、私たちは言葉にならない納得感に包まれていた。翌朝、振り返ると建物の影が春の柔らかな光に溶けていた。
- 23種類のお風呂を完走しようとせず、肌が「ここだ」と感じた温度の場所で、ただぼーっとすること。
- 湯畑へ行くときは、一番厚手の靴下を履いていくこと。足元から温まると、会話がもっと弾むから。