真夜中の共犯者、あるいは食欲の誘惑
浴衣の襟が首筋に触れる、少しだけざらついた麻の感覚。静寂とまごころの宿 七重八重の和室に戻ってくると、い草の清々しい香りが肺の奥までゆっくりと染み込んでくる。もともとは、完璧なスケジュールをこなすはずの旅だった。鬼怒川の川下りに乗り、駅からの短い散歩を楽しみ、地元の食材をふんだんに使った会席料理に舌鼓を打つ。実際、とちぎゆめポークのしゃぶしゃぶは驚くほど柔らかく、口の中でとろけるような贅沢な味わいで、お腹は十分に満たされていたはずだ。けれど、部屋の柔らかな灯りの下で、誰かがふいに「まだ何か入る気がしない?」と呟いた。そこからだった。私たちは、この旅で誰が一番先に「お腹いっぱい」という言葉に嘘をつくか、密かに賭けていたのかもしれない。結果的に、全員が完敗だった。私たちは、もこもことした浴衣の裾を気にしながら、夜の湿った冷たい空気を切り裂いてコンビニへと向かった。手に持ったビニール袋の、あの冷たくて無機質なプラスチックの感触が、今の私たちには心地よい背徳感のように感じられた。
畳の上でほどける、本音と塩気
「ねえ、さっきの会席料理、あんなに食べたのに信じられないんだけど。私たち、胃袋が別々に実装されてるのかな」
ポテトチップスの袋を乱暴に開けると、鋭い破裂音と共に、濃い塩気のある香りが狭い和室いっぱいに広がった。私たちは、整えられた畳の上に直接座り込み、コンビニで適当に選んだお菓子や飲み物を囲む。もはや上品な旅人の振る舞いなんて、どこか鬼怒川の流れに流してしまった後だった。
「いいじゃん。だって、あの岩魚の造り、本当に絶品だったし。あれを堪能してからこれを食べるのは、もはや別のスポーツみたいなもんだよ」
「言い訳がすぎるでしょ。っていうか、昼間に見たあのススキの原、綺麗だったけど、正直歩きすぎて足パンパンだったよね」
「あはは、わかる。でも、あの銀色の波みたいな景色、誰にも教えたくない感じがした。まあ、結局SNSに上げたいって言ってたのは君だけど」
「うるさいなあ。まあ、いいじゃん。そういうところも含めて、私たちの旅っぽいでしょ」
笑いながら、私たちは袋の中身を奪い合う。指先に付いた塩気を舐めとり、冷えた飲み物で喉を潤す。普段なら、もっと丁寧な言葉を選んで、もっと「正しい」自分を演じていたかもしれない。けれど、深夜の静寂と、口いっぱいに広がるジャンクな塩気。それが、不思議と心のガードを緩めてくれる。誰が何を言っても、ここではただの「お腹を空かせた旅人」でいられた。そんな、くだらないけれど贅沢な時間が、私たちの間にゆっくりと流れていた。
凪の静寂に溶け込む、心と身体
袋の中身が空になり、部屋にはまた元の静けさが戻ってきた。窓の外からは、鬼怒川のせせらぎが、一定のリズムで耳に届く。それはまるで、街の喧騒を丁寧に濾過した後の、純粋な水の音のように聞こえた。私たちは、言葉を交わすのをやめ、ただ横になって天井を見つめた。
先ほどまで浸かっていた露天風呂の、あの感覚を思い出す。熱いお湯に身を委ねていると、自分という個体の輪郭が、ゆっくりとぼやけていく。それは、温かい水の中に塩の結晶が溶け込んでいくプロセスに似ているかもしれない。最初は角があって、硬い意志を持っていたはずの自意識が、熱に触れられ、やがて透明に消えていく。誰かと一緒にいるけれど、同時に完全に一人であること。その矛盾した心地よさが、この部屋の空気に満ちていた。
もしかすると、旅の本当の目的は、有名な観光地を巡ることではなく、こうして誰かと一緒に「何もしない時間」を共有し、お互いの境界線が溶けていくのを待つことだったのかもしれない。静寂とまごころの宿 七重八重の畳の上に転がっていると、自分がどこに属しているのかさえ分からなくなる。けれど、その不確かさが、今はとても心地いい。欠けている部分があるからこそ、誰かがそこにフィットできる。そんな気がした。
窓の外では、雲の切れ間から漏れた月光が、密かに川面を銀色に染めていた。
- 鬼怒川温泉ナイトマルシェ「鬼のごちそう」で、地元の夜食を調達して。
- 貸切風呂で心身を解きほぐした後、静かな和室で甘い銘菓を分かち合う時間を。