← 戻る ホテル栂の季(つがのき)

雨が止まないことに、もう誰も文句を言ってなかった

雨が止まないことに、もう誰も文句を言ってなかった

誰が一番先に傘を忘れるか、賭けをしよう。結果、全員が忘れた。アスファルトが濡れた匂いと、日光の深い森が吐き出す湿った空気が、肺の奥までまとわりつく。靴の先がじわじわと重くなり、冷たい水が染み込んでくる感覚。それが、この旅の不器用な始まりだった。



地元の和菓子を口に運ぶ。指先に残る、少し粘り気のある砂糖の感触と、しっとりとした餡の重み。温かいお茶から立ち上がる白い湯気が、視界をぼやけさせ、周囲の緑を淡い水彩画のように変えていく。甘すぎる。けれど、その濃厚な甘さが、冷え切った指先を内側からゆっくりと解かしてくれた。


「もっとエモい角度があるはず。光の入り方が違う」と、紫陽花に執着する友人を眺める。規則正しく響くシャッター音が、静かな森に小さくこだまする。正直、どれも同じ青に見える。けれど、必死に画面を調整して眉間にしわを寄せる彼女の横顔は、なんだか滑稽で、たまらなく心地よかった。


栂の季(つがのき)の部屋に滑り込んだとき、私たちは大人ぶって静かに振る舞おうとした。けれど、シモンズベッドの心地よさに触れた瞬間、誰が一番良い枕を確保するかという低レベルな言い争いが勃発した。黒を基調としたモダンな空間が、私たちの幼稚さを鮮やかに際立たせている気がして、腹の底から笑いが込み上げた。


夜の闇に、小さな光が点滅する。ホタルだ。まるで誰かが空中に散りばめた、解像度の低いピクセルのように、儚く揺れている。深く呼吸を合わせると、静寂に心地よい厚みがあることに気づく。隣に誰かがいるという体温だけが、この深い森の中で唯一の確かな重さを持ってそこにあった。


部屋の露天風呂に身を沈める。御影石のひんやりした感触が、肌に触れた瞬間に鋭く跳ね返ってくる。そこに熱い湯を注ぎ、石がじわじわと熱を帯びていく過程を、指先でなぞっていた。水面を叩く音が、低く、心地よい周波数で耳に届く。ここでは、人生の正解なんて探さなくていいのかもしれない。


自販機で見つけた、名前も知らない不思議な飲み物。一口飲んで、全員で顔を見合わせた。「……何これ、薬みたいな味がする」という言葉しか出ない正体不明の味。けれど、その不可解さが、予定をすべて白紙にした私たちの今の状況にぴったりで、私たちはまた笑い合った。


濡れたままの服を干して、ただぼーっと外の深い緑を眺める。目的地に辿り着くことより、途中で迷って、くだらないことで言い合う時間の方が、ずっと価値がある。欠けている部分があるからこそ、そこに誰かが入り込める隙間ができる。私たちは、お互いの不完全さを埋め合うように、静かに寄り添っていた。

雨上がりのテラスに、一粒の雫が落ちた。

  • 栂の季(つがのき)の御影石の風呂は、ぜひ深夜に。静寂が一番贅沢なアメニティになるから。
  • 日光の紫陽花は、あえて雨の日に見て。色が濃くなって、嘘がつけない表情になるから。