← 戻る 那須高原の宿 山水閣

畳の上に散らばった、コンビニのお菓子の袋

畳の上に散らばった、コンビニのお菓子の袋

午前二時、静寂を破った「お腹空いた」の合図

裸足で踏みしめた廊下の木材が、ひんやりと指先に吸い付く。昭和初期の木造建築という趣を持つこの宿は、歩くたびに小さく、けれど確かなリズムで軋む。その音が、まるで建物自体が深く静かな呼吸を繰り返しているようで、心地よい緊張感に包まれた。五月の那須の夜気はまだ湿り気を帯び、開いた窓からは、濃い新緑の香りが夜露と共に忍び込んでくる。私たちは、チェックインしてからの数時間を「大人の余裕」という名の静寂で塗りつぶしていたが、深夜二時になると、その塗り壁はあっけなく剥がれ落ちた。

誰が言い出したのかはもう覚えていない。ただ、誰かが「お腹空いた」と小さく呟いた瞬間、私たちは共犯者になった。コンビニで買い込んだ地元の銘菓と、不健康そうなスナック菓子、そして結露した冷たい飲み物。ビニール袋がカサカサと鳴るたびに、静まり返った那須高原の宿 山水閣の空気が、私たちの体温でゆっくりとかき混ぜられていく。それは、ずっと硬く閉ざされていた種が、土の中でじわじわと水分を吸い、内側からひび割れ始める瞬間の、あの静かな激しさに似ていたのかもしれない。日常という殻を脱ぎ捨てるには、こういうくだらない口実が必要なのだという気がした。

畳の上に散らばる、本音と塩味の記憶

「ねえ、ぶっちゃけ今回のプラン立てたの誰だっけ。御用邸のあたりを歩くのは最高だったけど、あの坂道はマジでありえない。私の脚、今ごろ絶滅危惧種レベルで疲弊してるんだけど」

専用風呂付き客室の柔らかな畳の上に円を描くように座り、誰かがポテトチップスを口に放り込みながら、わざとらしく大きなため息をついた。照明を落とした部屋の中、間接照明のオレンジ色が、私たちの影を壁に長く、ゆらゆらと伸ばしている。塩気のある香りが、古木の香りと混ざり合って、不思議と安心感を誘った。

「いいじゃん、あの新緑のトンネル。あれこそ旅の醍醐味でしょ。それに、あんなに綺麗なバラが見られたんだから、多少の筋肉痛は入場料みたいなもんよ」

「入場料が高すぎるでしょ。っていうか、あんたさ、途中で『あっちに面白い道がある』って言って迷い込んだせいで、予定より三十分も遅れたよね?あの時の自信満々な顔、誰か写真に撮っておけばよかった」

「あはは!でも結果的に、あの名もなき路地裏で見つけた小さな店、最高だったじゃん。あそこでの出会いこそが、今回の旅のハイライトだって賭けてもいいよ」

そんな会話が、止まらなくなる。普段の生活では「効率」や「正解」というフィルターを通して言葉を選んでいるはずなのに、ここではそのフィルターが完全に壊れていた。相手の欠点を突き合い、それを笑い飛ばす。それは、互いの境界線にある古い皮が剥がれ落ちて、新しい皮膚がむき出しになるような、少しだけ心細くて、けれどたまらなく自由な感覚だった。那須の夜は深く、私たちはただ、お互いの不完全さを咀嚼していた。

満たされた胃袋と、心地よい空白の時間

最後の一片まで菓子が消え、飲み物の結露が畳に小さな染みを作っていた。激しかった会話の波が引き、部屋にはまた、あの心地よい沈黙が戻ってくる。けれど、それは最初の方にあった「気遣い」の沈黙とは違う。お互いの情けない部分を晒し尽くした後の、凪のような時間。誰が何を考えていてもいいし、何も考えていなくてもいい。ただそこに、同じ温度の空気を共有しているという事実だけで十分だった。

ふと気づくと、窓の外で風が木々を揺らす音が聞こえていた。その音は、まるで地中で芽吹いたばかりの小さな植物が、夜露に濡れながらゆっくりと背伸びをしている音のように聞こえた。私たちは、わざと計画を崩し、道に迷い、互いに文句を言い合ったけれど、そのすべての「失敗」が、今のこの安心感を形作っていたのだと思う。完璧な旅なんて、きっと退屈でしかない。むしろ、予定通りにいかなかったあの瞬間こそが、私たちの関係という土壌に深く根を張り、見たこともない色の花を咲かせるための栄養になったのかもしれない。那須高原の宿 山水閣の、古くて温かい木の香りに包まれながら、私たちはゆっくりと意識を深くへと沈めていく。明日になれば、また「大人」の顔をしてチェックアウトするけれど、この深夜の、散らかった畳の上の記憶だけは、誰にも渡したくない秘密として、心の一番柔らかい場所にしまっておこうと思った。

朝の光が、半分だけ開いた障子から畳の上に白い線を描いていた。

  • 那須の地元の乳製品を使った、濃厚すぎるプリン。深夜の背徳感にぴったり。
  • 地元のコンビニで売っている、季節限定の那須高原産りんごジュース。冷やして飲むのが正解。