← 戻る 大丸温泉旅館

地図を広げて言い合いをした時の、湯気の温度

地図を広げて言い合いをした時の、湯気の温度

湿った冷気と、誰のものか分からないスーツケース

指先が痺れるような、3月特有の湿った冷気が頬を撫でた。那須の奥地に佇む大丸温泉旅館 / Daimaru Onsen Ryokanに辿り着いたとき、私たちの間にあったのは完璧な旅程表ではなく、「ねえ、結局誰が予約ボタンを押したの?」という、心地よい混乱だった。古い木造建築の玄関に足を踏み入れると、使い込まれた床が低く、けれど確かな音で鳴る。誰かのスーツケースが転がる乾いた音と、重なり合う笑い声。ロビーに漂う微かな硫黄の香りは、まるでこの場所がずっと前から私たちの不器用な訪問を待っていたかのような、不思議な懐かしさを纏っていた。

この宿が私たちに教えてくれた、いくつかの些細なこと

「秘湯」という言葉の裏にある、圧倒的な水量について
隠れ家のような静けさを期待していたけれど、実際に出会ったのは野趣あふれる川の湯のように奔流する湯量だった。私たちの小さなプライドなんて、この源泉の勢いの前では、表面張力でかろうじて形を保っている水滴くらいにしか見えない。結局、誰が一番に湯船に浸かるかで賭けをしたが、あまりの湯量に圧倒されて全員が同時に絶句した。

竹炭が敷き詰められたベッドという、抗えない眠りの罠
ベッドの下に竹炭が敷いてあり安眠効果があるという説明に、「そんなことで本当に眠くなるのか」と誰かが鼻で笑った。結果はどうだったか。翌朝、誰が一番に起きて朝食を確保するかという緻密な作戦会議は、全員が泥のように深い眠りに落ちたことで完全に崩壊した。意識が覚醒するまでのあの空白の時間こそが、この旅で一番贅沢な時間だったのかもしれない。

浴衣で歴史的な展示を眺めるという、奇妙な違和感
乃木将軍ゆかりの品々が並ぶコーナーを、私たちは揃って浴衣姿で回った。背筋を伸ばして文化的な時間を過ごそうとしたけれど、足袋の感触が心許なくて、なんだか迷い込んだ観光客の集団みたいで可笑しかった。「この展示、深いね」と真剣な顔で日記を読みながら、心の中では「この後、お腹が空いたら何を食べるか」だけを考えていたはずだ。

バスローブ着用という、ある種の連帯感
混浴スタイルの露天風呂で、指定のバスローブを纏った私たちの姿は、客観的に見ればかなりシュールだったと思う。けれど、その不格好な格好で並んで白い湯気に包まれているうちに、不思議と「このメンバーで正解だった」という感覚が、毛細管現象のようにじわじわと心に染み込んできた。ふかふかの生地の感触が、緊張をほどいてくれた。

リストの外側にある、名前のない時間

計画していた観光スポットをいくつか回った後、私たちはふと、予定にない静寂に身を任せることにした。部屋にある檜風呂に、ゆっくりと湯を溜める。お湯が満たされていく「トポトポ」という音だけが、部屋の空気を塗り替えていく。それは、空っぽだった器に、ゆっくりと色が満たされていくような感覚だった。檜の清々しい香りが鼻腔を抜け、強張っていた肩の力がふっと抜ける。

実のところ、私たちは旅の間ずっと、何か「正解」のような体験を探していたのかもしれない。けれど、深夜3時に、裸足で踏んだタイルの冷たさに身をすくませ、それから暖かい布団に潜り込んで、誰が一番に寝息を立て始めたかを密かに観察しているとき、ふと感じた。心地よさとは、完璧なプランの中にあるのではなく、プランが崩れた後の、この不確実な余白にこそ宿るのではないか、と。

窓の外では、春分を待つ那須の森が、深い呼吸を繰り返している。まだ桜の開花予想に一喜一憂しているけれど、ここではもう、土の下で水が動き始めているのが分かる。目に見えない流れが、ゆっくりと、けれど確実に春を押し上げている。その不可視の力に身を委ねることは、きっと、自分の中にある「孤独」という名の臓器を、優しくマッサージすることに似ている。私たちは、ただそこにいていい。飾らない、不揃いなままの私たちで。

湯気の中に溶けていった、誰の物ともしれない笑い声。

  • 飲泉所で、自分の体のリズムに合わせてゆっくりと温泉水を味わってみること。
  • 予定を一つだけ捨てて、檜風呂でぼーっと天井の木目を数える時間を作ること。