← 戻る ホテル四季の館 那須

廊下の角で誰かが笑っていた

「お前、今の顔、完全に迷子の猫だったぞ」

「ちょっと待って、今の見た? 盛り付けに感動して口開けた瞬間に、クリームが鼻の頭に乗ったんだけど!」
「見たし。っていうか、最高にマヌケだった。フランス料理店でそんな顔するやつ初めて見たわ」
「うるさいな! このムースが予想以上にふわふわだったのが悪いんだよ」
「はいはい。まあ、そのおかげでこっちは腹筋崩壊したから、結果的に正解だったね」

銀色のカトラリーが磁器に当たる軽やかな音と、濃厚なバターの香りが漂う中、私たちは互いの品格のなさを笑い飛ばしていた。オレンジ色の温かな照明が、テーブルを囲む私たちの顔を柔らかく照らし、ワイングラスの中で踊る気泡が、弾ける笑い声に同期している。目の前の皿は完璧な芸術品なのに、それを食べる私たちは、いつもの通りに騒がしくて、救いようがないほどにくだらない。でも、この心地よい不協和音こそが、旅の醍醐味なのだと感じていた。

静寂を纏う、武家屋敷の記憶

笑い声が心地よい余韻を残して消えた後、私たちはホテル四季の館那須の長い歩廊を歩いた。足裏に伝わる木の感触は、ひんやりとしていながらも、どこか懐かしい体温を宿している。深い色味を帯びた木材が、五月の柔らかな陽光を静かに吸い込み、空間全体が深い呼吸を繰り返しているかのようだ。大正ロマンの香りが漂う武家屋敷風の建築は、単なる宿泊施設ではなく、時間を止めるための装置のように感じられた。

廊下を歩くたびに、自分の足音が静寂に溶けていく。それは日常の喧騒を削ぎ落とすための儀式の道のようだった。ふと外に目を向ければ、風に揺れる藤の花が淡い紫の雨のように降り注ぎ、芽吹いたばかりの新緑の鮮やかさが視界を塗りつぶしていく。那須湯本駅からホテルまで歩いた道中で嗅いだ、湿った土と若葉が混ざり合った青い匂いが、今も鼻腔の奥に心地よく残っていた。

お風呂上がりに身に纏った浴衣の、少しざらついた綿の質感。そして「美人の湯」として名高い温泉が肌に残した、絹のような滑らかな膜。湯気に包まれて強張っていた肩の力が、ゆっくりと、本当にゆっくりとほどけていく。この雅な空間に身を置くだけで、バラバラだった私たちの心が、一つの穏やかなリズムに整えられていくのがわかった。豪華さという言葉よりも、心地よい重量感という方がしっくりくる。私たちはわざとゆっくりと歩いた。効率的に観光地を回ることよりも、この静かな空間に自分たちの笑い声を置いていくこと。それだけで十分な贅沢だった。

闇に溶ける、本音の断片

「……っていうかさ、本当は今回の旅行、誰か一人くらい遅刻してくると思ってた」
「ひどいな。まあ、実際は電車が遅れただけだけど。でも、まあ、いいか」
「いいよね。……このお湯、本当に肌がすべすべになる。なんか、人間としてアップデートされた気分」
「言い方おかしいだろ。でも、わかる。明日からまた、少しだけ頑張れる気がしなくもない」
「あ、今、ちょっとだけいいこと言おうとしたでしょ。無理しなくていいよ」
「うるさいな。寝るぞ」

消灯後の部屋に、遠くで木々を揺らす風の音だけが忍び込んでくる。リネンのさらりとした感触に身を任せ、闇に溶けていく感覚に浸る。昼間の騒がしさが嘘のように、静まり返った空気の中で、言葉はいつもより深く、誠実に心へ届いた。私たちは明日何を食べるかという、どうでもいい話をしながら、心地よい眠りへと落ちていった。

翌朝、カーテンを開けると、眩いほどの新緑が世界を塗り替えていた。

  • 那須湯本駅からホテルまで、あえて歩いてみること。五月の空気の匂いが一番濃い時間です。
  • 美人の湯に浸かった後は、ぜひ浴衣で歩廊を散歩して、木の香りに包まれてみてください。