「ここなら、ゆっくり呼吸できそう」
「本当にここでいいのかな」
君が、少しだけ不安そうにホテルのエントランスを見上げて呟いた。
「たぶんね。僕も、なんとなくここがいい気がしたんだ」
答えを持っていない僕の言葉に、君は小さく笑った。自動ドアが開いた瞬間、外の喧騒がふっと遠のき、代わりに柔らかい琥珀色の照明と、清潔感のある落ち着いた香りが僕たちを優しく包み込んだ。
春の湿度に溶け出す、不器用な僕たちの距離感
丸の内駅から歩いて数分。アスファルトを叩く靴音の響きが、ホテルに近づくにつれて静かな期待へと変わっていく。四月の名古屋の空気は、しっとりと湿り気を帯びていて、それが街の角を丸く削り取っているように感じられた。その柔らかな湿度こそが、張り詰めていた僕たちの心を、ゆっくりと緩めてくれたのかもしれない。
部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのは、白く広がるベッドの海だった。ホテル京阪 名古屋のハリウッドツインルーム。二つのマットレスがぴったりと寄り添ったその空間は、まるで都会の喧騒に浮かぶ一つの大きな島のように見える。裸足で踏みしめたカーペットの、指の間に入り込む心地よい厚み。そこに身を投げ出したとき、ようやく僕たちは、誰のものでもない自分たちの時間を手に入れたと感じた。部屋の隅で静かに作動している空気清浄機の低いハム音が、かえってこの空間の静寂を際立たせている。
深夜、部屋の明かりを落として、窓の外に広がる街の灯りを眺めていた。ガラス越しに伝わる夜の冷たさと、室内の温もりの境界線。その狭間で、君が僕の肩に頭を預けてきた。そのとき感じた君の髪の微かな香りと、規則正しい呼吸の音。それは、どんなに精巧な音響設計よりも、僕にとって切実な心地よさだった。僕たちは、お互いの心地よい距離感を探るのに、ずいぶん時間がかかった。けれど、この洋風でいてどこか懐かしい静寂の中にいれば、その「正解のなさ」さえも、愛おしいものに思えてくる。
翌朝、一階のレストランで向き合ったとき、テーブルに並んだ名古屋めしの色彩に、少しだけ心が弾んだ。ひつまぶしの香ばしい匂いと、京都の老舗、西利のお漬物の、凛とした塩気。口の中で広がる発酵の深い味わいは、僕たちがこれまで積み重ねてきた、不器用で、けれど大切な時間の積み重ねに似ている気がした。窓の外には桜通の景色が広がり、春の風に揺れる花びらが、誰かの密やかな囁きのように舞っていた。ふと、君が「あ、見て」と指差した。窓ガラスに、小さな水滴がひとつ、ゆっくりと滑り落ちていた。そのあまりに些細な動きに、僕たちは同時に、小さく笑い合った。その瞬間、僕たちの間にあった見えない壁が、春の陽気に溶けて消えたような気がした。
カーテンの隙間から差し込む光が、君の睫毛を白く照らしていた。
- 朝食の西利のお漬物を、ゆっくりと味わってほしいな。
- 桜が舞う頃の名古屋城まで、ゆっくり手をつないで歩いてみない?