指先に残る、春の甘い記憶
ウェルカムドーナツ。指先でそっとつまみ上げると、表面にまぶされた白い砂糖が細かな粒子となって、吸い付くように皮膚に張り付く。ほんのりと温かい。揚げたての油が持つ香ばしさと、四月の湿った春の空気が混ざり合い、鼻腔の奥で心地よく震えている。the b 名古屋のロビーで、誰かが丁寧に並べたそれを、僕たちはどちらからともなく手に取った。指先に触れる紙袋の、カサカサという乾いた音。それは、洗練された静寂に包まれた空間の中で、唯一の生きた拍動のように聞こえた。部屋に入り、荷物を床に置いたとき、ふわりと甘い香りが空間に広がった。それは、旅の緊張を少しだけ緩めてくれる、小さな合図のようなものだった。モダンで無機質なインテリアの中に、その小さな菓子だけが、どこか懐かしく、体温を持った存在としてそこに在った。
「甘すぎるかな」という、小さなためらい
「これ、甘すぎるかな」
君がドーナツを半分に割って、僕に差し出した。指先に少しだけ、白い砂糖がついている。
「……わからない。でも、悪くない気がする」
僕はそれを口に運んだ。舌の上で砂糖がゆっくりと溶けて、じわりと濃厚な甘さが広がる。そのとき、胸のあたりで低い周波数の音が鳴ったような気がした。緊張しているのか、それとも心地よいのか、自分でもよくわからない震え。
「外、まだ桜咲いてるかな」
「たぶん。久屋大通まで歩いてみようか」
君はそう言って、ダブルルームのベッドの端に腰掛けた。厚みのあるマットレスが、君の重みでゆっくりと沈み込む。そのわずかな傾斜に、僕の身体も自然と引き寄せられた。途中で、僕が照明のスイッチを押し間違えて部屋が真っ暗になり、二人で「あ」と声を上げて、暗闇の中で小さく笑った。そんな、なんてことのない空白の時間が、今の僕たちには必要だったのかもしれない。
砂糖の粒子が教えてくれたこと
チェックアウトして、名古屋の街に溶け込んでからも、あの小さなドーナツの感触が指先に残っていた気がする。もともと僕たちは、お互いのリズムを合わせるのが苦手だった。歩幅が違えば、呼吸のタイミングもずれる。でも、the b 名古屋のあの静かな部屋で、一つの甘いものを分け合ったとき、僕たちの周波数がほんの一瞬だけ、同じ波形を描いたような気がした。
それは、何か劇的な答えが見つかったわけではない。ただ、「今のままでもいいのかもしれない」という、静かな肯定感。胸の奥でずっと鳴っていた、あの正体不明の震えが、心地よい温度に変わっていく感覚。欠けている部分があるからこそ、そこに相手の体温が入り込む隙間ができる。不完全であることは、拒絶ではなく、相手を招き入れるための招待状なのだという気がしてきた。
僕たちは、完璧な二人になろうとするのをやめた。ただ、春の風に吹かれながら、隣にいる誰かの呼吸を聴いている。それだけで十分だということ。砂糖の粒子がゆっくりと溶けて消えるように、抱えていた不安も、心地よい余韻へと変わっていった。栄の街を歩きながら、僕たちはわざとゆっくりと歩いた。目的地へ急ぐことよりも、今のこの、ちょうどいい距離感を壊したくないと思ったから。都会の喧騒さえも、今の僕たちには心地よいBGMのように聞こえていた。
窓の外では、淡い色の花びらが、誰にも気づかれずに静かに地面へ舞い降りていた。
- 久屋大通公園まで、あえて地図を見ずにゆっくりと歩いてみる。
- 朝の光が差し込む部屋で、二人で静かにコーヒーを淹れてみる。