「地図持ってるやつ、誰だっけ」
「ねえ、ここじゃないの?」「いや、さっきの角を右だって言ったじゃん!」「右っていうのは、君の右じゃなくて私の右のことだよ!」
誰かが呆れたように深くため息をつき、誰かがわざとらしく大笑いして肩を揺らす。九月の長崎は、まだ夏のしっぽを掴んでいるみたいにじっとりとしていて、歩くたびにシャツが背中に張り付く不快感がある。けれど、潮風に混じって漂ってくる屋台のソースの焦げた香りと、遠くから聞こえる祭りの囃子が、私たちの気分を妙に昂らせていた。私たちは秋祭りの提灯を探して、迷路のような路地裏で完全に迷子になっていた。正確には、自信満々な誰かが間違った方向に導いていたけれど、それを責めるよりも、今のこの絶望的な状況を笑い飛ばす方がずっと効率がいい。誰が一番先に「もう無理、ホテルに戻りたい」と白旗を上げるかという賭けをしていたが、結果、全員が同時にそれを口にしたとき、私たちは自分たちのチームワークが完璧だという気がして、また腹を抱えて笑った。
喧騒の裏側にある、静かな空白
思案橋の賑わいから歩いてわずか二分。リッチモンドホテル長崎思案橋の自動ドアが開いた瞬間、外の喧騒がふっと遮断され、ひんやりとした静寂が肌を撫でた。その急激な温度差に、少しだけ耳の奥がツンとする。チェックインを済ませて案内されたTRIPLE ROOMは、三人でいても不思議と窮屈さを感じさせない、絶妙な距離感があった。清潔なリネンのパリッとした冷たい感触と、間接照明が描き出す柔らかな琥珀色の光が、旅の興奮で高ぶった神経をゆっくりと鎮めていく。窓の外には、昭和の港町のような情緒を残した街並みが広がっていた。
一番の贅沢は、大浴場での時間だった。湯船に身を沈めた瞬間、指先の強張りがほどけ、凝り固まった疲れが温かいお湯に溶け出していく。立ち上る白い湯気の向こう側で、誰かが残した濡れたタオルの湿った重みが、椅子にぽつんと置かれていた。その不完全な光景に、なんだか安心した。完璧じゃない旅の、いい証拠みたいで。都会の真ん中にいながら、深い海の底に潜っているような、そんな不思議な静寂。現代的な快適さに包まれながら、心だけがゆっくりと凪いでいくのを感じた。スーツケースを床に転がしたときの乾いた音が、部屋の隅まで心地よく跳ね返る。ここは、外の世界の喧騒を忘れさせてくれる、私たちだけの聖域だった。
誰にも言わない、深夜の独り言
「……なあ、本当はさ、あの時めちゃくちゃ怖かったんだよね」
部屋の明かりを半分消し、コンビニで買った地元のカステラをちぎりながら、誰かがぽつりと呟いた。昼間の喧騒が嘘のように、声のトーンが低くなる。カステラの濃厚な卵の香りと、しっとりとした甘さが、狭い空間にゆっくりと、濃密に広がっていく。
「わかる。私も、実は方向音痴すぎて、ずっと誰かの後ろをついていくだけだったし。置いていかれるのが怖くて、必死に歩幅合わせてたよ」
「いいじゃん、それで正解。だって、迷った方が面白いし。予定通りにいかないのが旅の醍醐味でしょ」
そう言って笑った横顔が、カーテンの隙間から漏れた街灯の青白い光で淡く照らされていた。昼間はあんなに言い合っていたのに、夜になると言葉の角が取れて、丸くなる。お互いの弱さをさらけ出すことで、ようやく本当の意味で繋がった気がした。正解なんてなくていい。ただ、この不完全な時間を共有していることが、何よりも贅沢に感じられた。もしかすると、私たちは目的地に辿り着くことよりも、辿り着けない時間を、この静かな部屋で反芻することを望んでいたのかもしれない。
窓の外で、遠くの祭りの太鼓の音が、心臓の鼓動みたいに静かに響いていた。
- リッチモンドホテル長崎思案橋の大浴場で、旅の疲れをゆっくりと溶かす時間を。
- 思案橋の路地裏で、偶然見つけた小さなお店で地元の味に驚く体験を。