← 戻る びわ湖大津プリンスホテル

グラスの中の氷が、青い湖に溶けていく音

グラスの中の氷が、青い湖に溶けていく音

「近道」という名の迷宮を抜けて

「誰がここを『近道』って言ったんだよ!」
「いや、だって地図では直線だったし!」
「直線なのは画面の中だけ!現実には壁があるし、階段があるし、何より君の方向感覚が絶望的なんだよ」
「酷すぎる!でも見てよ、結局ここに着いたじゃん」
「まあね。でも私の靴の底が砂利でボロボロになった責任、どう取るつもり?」
「最高に高いデザート奢るから!な?」
「……ふん、その条件で許してあげる」
私たちは肩を寄せ合い、笑い転げながらロビーへ滑り込んだ。春の湿った風と、誰かのいたずらっぽい笑い声、そして微かに漂う雨上がりの土の香りが、心地よく混ざり合っていた。互いの失敗を笑い飛ばす、とりとめもない会話の断片が、賑やかな空間に溶けていく。

青い静寂に抱かれる、空中の特等席

エレベーターが上昇するたび、耳の奥で小さな圧力が変わり、身体がふわりと浮き上がる。38階という高さは、数字以上の身体的な衝撃としてやってきた。扉が開いた瞬間、そこに広がっていたのは、客室というよりも「切り取られた空」だった。びわ湖大津プリンスホテルのツインルームに足を踏み入れると、壁の多くを占める大きなガラス窓が、外の世界との境界線を曖昧にする。足元の厚いカーペットは、歩くたびに足首を優しく包み込み、外の喧騒をすべて吸い込んでしまう。

窓辺に立つと、指先にひんやりとしたガラスの感触が伝わった。視界の端から端まで、ただひたすら青い。4月の琵琶湖は、冬の名残を抱いた深く透き通った瑠璃色をしていた。水平線がどこにあるのか分からないほどに広がった水面は、巨大な絹の布を丁寧に広げたように静かで、時折、白い波紋が小さく揺れている。その景色を眺めていると、自分が地面に立っていることさえ忘れ、青い海の上に静かに漂っているような錯覚に陥る。まるで世界に自分たちだけが取り残されたような、心地よい浮遊感だった。

ベッドに体を預けると、洗い立てのリネンの清々しい香りとひんやりとした質感が肌に触れ、張り詰めていた肩の力がゆっくりと抜けていく。深夜、ふと目を覚ましたとき、部屋の中には濃密な静寂が満ちていた。遠くで聞こえる車の走行音が、まるで深い海の底で聞く波の音のように、心地よいリズムとなって耳に届く。誰かと一緒にいるのに、同時に心地よい孤独を感じられる。そんな贅沢な距離感が、この高い場所にはあった。部屋の隅にあるランプの柔らかな光が、壁に淡い影を落とし、その揺らぎをぼーっと眺めているだけで、時間が永遠に止まってほしいと願った。私たちはただそこに在るだけでいい。この圧倒的な青が、私たちの不完全ささえもすべて肯定してくれている気がした。

氷の音と、夜の湖に預ける本音

「ねえ、ぶっちゃけ……新しい生活のこと、不安じゃない?」

部屋の明かりを落とし、間接照明だけが琥珀色に灯る空間で、誰かがぽつりと呟いた。昼間の騒がしさが嘘のように、声のトーンが低くなる。

「……まあね。正直、自分がそこに馴染める気がしないっていうか。サイズが合わない服を着せられてる感じ」
「わかる。私も、期待されてる自分を演じるのに疲れそう」
「でもさ、不安っていうのは、そこに何か答えがあるっていうサインかもしれないよ」
「出た、急に哲学的。まあいいけど。明日になれば、またいつものようにくだらないことで喧嘩するんだろうし」
「それがいいよね。私たち、そういう不器用なところだけは変わらないし」

グラスの中で氷がカランと鳴った。その小さく澄んだ音が、今の私たちにとって一番正直な答えだった。言葉にできない不安も、この夜の静寂に溶かしてしまえばいい。

窓の外では、夜の湖が静かに、けれど確実に明日へと流れていた。

  • 37階のラウンジで、滋賀県産の桃が香るアフタヌーンティーをゆっくりと味わうこと
  • チェックアウト後、湖畔を散歩して、4月の冷たい風を頬に受けて歩くこと