浴衣の襟が首筋に心地よく、けれど少しだけ硬く触れる。ロビーに足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、雨上がりの深い森をそのまま切り出したような、濃密な杉の香りだった。私たちは、誰が一番先に浴衣を着崩すかという、どうでもいい賭けをしながらチェックインを済ませた。結果的に、一番きれいに着こなしていたはずのあいつが、歩き始めて五分で帯を緩めていた。その不格好な姿に、私たちは声を上げて笑った。
宵闇に溶けた、二つの記憶
ーー私視点
夜空に咲いた大輪の花火は、音よりも先に振動として胸に届いた。ドスンという低い圧力が肺を押し潰し、心臓の鼓動と共鳴する。火薬の焦げた匂いと、町中に漂う硫黄の香りが混ざり合い、夏の夜の輪郭をぼやけさせていた。隣で誰かが叫んでいるけれど、私の耳には、光が消えた直後に訪れる真空のような一瞬の静寂だけが心地よく響いていた。世界が一度だけ呼吸を止めたような、そんな感覚。私たちはただ、黄金色の残像を追いかけていた。
ーー友人視点
もう、めちゃくちゃだった。いい場所を確保しようとしたのに、結局人混みに押されて、誰がどこにいるのかさえ分からなくなる。あいつが「あっちにいいスポットがある!」と叫んだ方向へ走ったら、行き止まりの路地だった。全員で顔を見合わせて、同時に爆笑した。湿った夜風に浴衣の裾をなびかせ、不格好に走り回ったあの時間。花火が綺麗だったのは確かだけど、それ以上に、私たちの笑い声が夜空に吸い込まれていくあのカオスな状況が、最高に贅沢に感じられた。
舌が覚えている、異なる幸福
ーー私視点
「喜楽亭」のオープンキッチンから漂う、脂の焼ける激しい音。上州和牛の霜降り肉を、熱い鉄鍋に滑り込ませる。ジュワッという鋭い音が耳を打ち、肉の表面が瞬時にキャラメル色に変わる。口に運べば、脂が体温で溶け出し、ベルベットのような滑らかさが舌を包み込んだ。立ち上る湯気と共に、甘いタレの香りが意識の奥まで浸透していく。それは味覚というよりも、熱量と質感に溺れるような、触覚に近い体験だった。
ーー友人視点
目の前で料理人が鮮やかな手つきで食材を仕上げていく。そのリズムに合わせて、私たちの会話も加速していった。誰が一番たくさん肉を食べるか、あるいは誰が一番タレをこぼすか。そんなくだらないやり取りをしながら、あつあつの鍋を囲む。隣の席から聞こえる笑い声や、食器が触れ合う小さな音が、心地よいBGMになっていた。正直、味も最高だったけれど、それ以上に「いま、ここに全員で揃っている」という賑やかな空気感に、心もお腹も満たされた。
唯一、心から同意した贅沢
結局、この旅で全員が「正解だった」と認めたのは、「草津温泉喜びの宿 高松」の客室「珠玉」で過ごした時間だ。テラスのサウナでじりじりと肌が焼ける熱さに耐え、直後に水風呂へ飛び込む。心臓が跳ね上がり、血流が指先まで一気に駆け巡る快感。そこから半露天風呂に身を沈めると、冷えた肌がゆっくりと解きほぐされ、意識が心地よく遠のいていった。最後は広すぎるキングサイズベッドに四人で潜り込み、端っこを巡って揉めたが、身体を深く受け止めるあの柔らかい沈み込みだけは、誰一人として文句をつけなかった。
朝露に濡れたウッドデッキを、淡い陽光が静かに撫でていた。
- ナビでは細い道に誘導されることがあるため、電話番号を目的地に設定して向かうのが正解。
- ロビーの自家製温泉まんじゅうは、温かいうちに。控えめな甘さが旅の余韻を優しく包む。