「誰が最初に硫黄の匂いに文句を言うか賭けない?」
「乗った。あ、見て、あいつの顔。完全に『ゆで卵みたいな匂いがする』って言いそう」
「いや、実際は卵っていうか、もっとこう……草津の正解の匂いじゃない? というか、お前こそさっきから鼻をひくひくさせてるぞ」
「うるさいな。私はただ、空気の密度を確認してただけ。あ、見て! あの湯煙、巨大な綿菓子みたいじゃない?」
「例えが幼稚すぎる。まあいいや、とりあえず誰が一番に迷子になるか、もう一回賭け直そうぜ」
「いいよ、負けたやつが明日の朝の散歩のガイド担当な」
「お前がガイドしたら、十中八九、湯畑のど真ん中で方向感覚を失って立ち尽くすのがオチだぞ」
「ひどいな! でも、この濃い硫黄の香りを嗅いでると、なんだか本当に遠くまで来たなって実感が湧くね」
笑い声のしっぽが心地よく揺れる空間
バスターミナルから歩いてわずか五分。街に立ち込める濃密な硫黄の香りが、物理的な壁のように鼻腔を叩く。その喧騒を抜けて草津温泉ホテル 櫻井の暖簾をくぐると、外の音量設定がふっと一段階下がったような、静謐な空気に包まれた。案内された新客殿特別室は、静寂に心地よい厚みがある。裸足で踏みしめた畳の、ひんやりとしていながらも乾いた質感が足裏に心地よく、い草の清々しい香りが、旅の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。
友人たちの笑い声は、この和室の空間で不思議な反響を繰り返していた。誰かが冗談を言い、誰かがそれに鋭くツッコミを入れる。その音が障子や天井に跳ね返り、柔らかな残響となって耳に残る。それはまるで、丁寧にレイヤーを重ねた音楽のトラックのようで、一人でいる時には決して聞こえない幸福な周波数だった。テーブルに置かれた急須から注がれるお茶の、黄金色の湯気と香ばしい香りが、部屋の温度をさらに心地よく引き上げていく。
窓の外には九月のすすきが、夜風に吹かれて銀色のさざ波のように揺れている。その視覚的なリズムと、室内の賑やかな空気感が重なり合って、贅沢な充足感に満たされる。ふと、誰かが月を撮ろうとスマートフォンを構えていたけれど、結果的に撮れたのは真っ黒な背景に白い点があるだけの、ひどく不器用な写真だった。みんなでそれを見て、また同時に笑い出した。完璧じゃないことが、こんなにも心地いいなんて。
浴衣の綿の柔らかな感触が肌に触れるたび、自分が今、ここにあるという実感がゆっくりと広がっていく。お風呂上がりの肌が、温泉の酸性成分で少しだけぴりつく感覚。それが、私たちが同じ時間を共有しているという、目に見えない確かな印のように感じられた。
月明かりと、少しだけ正直な声
「……まあ、ぶっちゃけ、今回のプラン、全部適当だったしね」
夜の静寂が深まり、部屋の明かりを落とした頃、誰かがぽつりと漏らした。
「いいじゃん。その適当さが正解だったっていうか。というか、この静けさ、ちょっと贅沢すぎない?」
「そうかも。普段、誰かと一緒にいてこんなに静かなのが耐えられるの、珍しい気がする」
「まあ、お前がうるさいから、相対的に静かに感じるだけじゃない?」
「……ふふっ。そういうところ、本当に変わらないな」
「なあ、来年もまた、適当に集まってどこか行こうぜ」
「いいよ。その時は、もっと不器用な写真が撮れる場所を探そう」
「賛成。次は誰が一番に迷子になるか、もっと高い金額で賭けよう」
「最低だな、お前らは」
窓の外で、すすきがさらさらと、誰にも聞こえない速度で歌っている。
- 湯畑周辺の散策後は、早めにホテルに戻り、新客殿特別室の静寂を独占すること。
- 九月の夜風に吹かれながら、誰が一番不器用な月写真が撮れるか競い合ってみて。