真夜中の共犯者、あるいは空腹という名の誘惑
指先に触れるホテルのキーカードが、夜の冷気を孕んで少しだけ冷たかった。メリケンパークで潮風に混じるバラの香りに酔い、新緑の鮮やかさに目を細めて歩き回った一日の終わり。ホテルオークラ神戸のロビーに足を踏み入れたとき、そこにある圧倒的な静寂と、磨き上げられた大理石の光沢に、私たちは一瞬だけ自分たちが「場違いな客」であるような錯覚に陥った。けれど、エレベーターで部屋に向かう途中の密室で、誰かが小さく、けれど切実に呟いた。「お腹空いた」。その一言が、静かな夜を塗り替える合図となった。結局、私たちはチェックインの余韻に浸る間もなく、競い合うようにして近くのコンビニへと走った。最高級のリネンが整えられた聖域のような部屋に、コンビニのプラスチック袋をいくつも持ち込むという、ある種の小さな反逆。袋が擦れるカサカサという乾いた音が、静まり返った廊下に密やかな共犯者の足音のように響いていた。
揚げ鶏の香りと、不格好な笑い声
「信じられないと思うけど、私たち今日、合計で二万歩くらい歩いたよね」
ベッドの端に腰掛け、コンビニで買った揚げ鶏を頬張りながら、友人が呆れたように笑う。デラックスツインの広々とした空間に、唐突に漂い出した濃い油の匂い。それは、ホテルのアメニティが放つ洗練された微香を塗りつぶしていく。本来なら、ここではルームサービスの気品あるディナーを、白いテーブルクロスの上で楽しむべきなのかもしれない。けれど、私たちはわざと、真っ白なシーツの端に不格好に座り込んで、ポテトチップスの袋を勢いよく広げた。パリッという快い音が、ラグジュアリーな静寂を心地よく切り裂く。
「だって、あの藤の花、絶対に見逃せないって言ったのは君じゃん」
「それはそうだけどさ。でも、途中で迷ったあの路地裏、あれは何だったの? 誰が右に行こうって言ったんだっけ」
「たぶん、私たち全員が右だと思った。ある意味、チームワーク完璧じゃない?」
誰かが吹き出し、弾けるような笑い声が部屋の天井に跳ね返る。誰が一番迷ったか、誰が一番たくさん写真を撮ったか。そんな、旅の公式な記録には決して残らない、どうでもいい言い合いがたまらなく心地いい。指についた塩をぺろりと舐め取りながら、私たちは互いの「失敗」を笑い合った。完璧に調律された部屋の空気が、私たちのとりとめない会話と、安っぽいお菓子の匂いで、少しずつ、人間らしい体温のある温度に塗り替えられていく。まるで港町に満ちてくる潮のように、気取らない親密さが部屋いっぱいに広がっていく感覚があった。
満ち足りた胃袋と、港町の静寂
最後の一片まで食べ尽くし、空になった袋をまとめてゴミ箱に捨てると、部屋に再び静寂が戻ってきた。けれど、それは最初の方にあった緊張感のある静けさではなく、お互いの呼吸が深く重なり合うような、柔らかい凪の時間だ。窓の外に広がる神戸の夜景は、誰かが宝石箱をひっくり返したかのように、静かに、けれど贅沢に光っている。冷房で少し冷えた肌に、厚みのあるデュベが吸い付くように心地よく馴染む。裸足で踏みしめたカーペットの、足首まで飲み込まれるような深い感触。私たちはもう、言葉を交わさなくてもいい心地よさに浸っていた。ただ、隣に誰かがいるということ。同じ温度の空気を吸い、同じ夜景を眺めているということ。その事実だけで、十分すぎるほど満たされていた。もしかすると、この旅で一番の贅沢だったのは、豪華な設備ではなく、この「何もしない時間」を共有できたことだったのかもしれない。
窓の外、遠くで鳴る車の走行音が、心地よいリズムで夜の闇に消えていった。
- 神戸の地元のベーカリーで買った、香ばしく少し硬めのクロワッサンと冷たいミルク
- コンビニのホットスナックと、地元のクラフトビールを合わせる大人の贅沢