← 戻る ホテル湖龍

まぶたの裏に残った、湖の青い残像

指先に触れる空気は、もう完全に秋の温度だった。誰が一番先に荷物の重さに文句を言うか賭けたけれど、結果的に全員が疲れすぎていて、文句を言う気力すら残っていなかった。ただ、足元の砂利が鳴らす乾いた音と、鼻をくすぐる湿った土、そしてどこか遠くで焼いているお菓子の甘い匂いが心地よく混ざり合っていた。



湯気が眼鏡を真っ白に染める。ほうとうの器から立ち上がる熱い白霧が、冷え切った指先をゆっくりと解かしていく。カボチャの甘みが溶け出したスープの、とろりと濃厚な質感。誰が一番多く野菜を食べたか、口の周りにスープをつけたまま子供のように競い合っていた。


「漫画ライブラリー&カフェ りゅうのす」の扉を開けた瞬間、古い紙とインクの匂いが肺いっぱいに広がった。1万冊以上の蔵書という名の迷宮を前に、互いの選書センスに激しく突っ込み合う。君が選んだシュールすぎる漫画に、私は腹を抱えて笑った。ページをめくる乾いた音が、静かな空間に心地よいリズムを刻んでいく。


温泉むすめの法被を羽織った私たちは、客観的に見てかなり誇張された格好をしていた。鏡に映った自分たちの姿が滑稽で、誰からともなく吹き出した。お互いの着崩れた裾を指差して笑い合う。そんな、なんてことのない時間が、実は一番贅沢な旅の記憶になるのかもしれない。


夕暮れのレイクビュー。湖面に反射した光がプリズムのように砕け、深い青から黄金色へとゆっくりと色が移り変わる。水面が鏡のように空を飲み込んでいく様子をじっと眺めていると、視界の端に心地よい空白が生まれる。言葉にしなくても、隣に誰かがいるという確かな質量だけがそこにあった。


ホテル湖龍 / Hotel Koryu の和洋室に足を踏み入れ、裸足で踏んだフローリングのひんやりとした温度に心地よさを感じる。ベッドからトイレまで、ゆっくり数えて十歩。ふとんの中に潜り込んだとき、布地の柔らかな重みが体に馴染み、意識がゆっくりと遠のいていく。この静寂さえも、誰かと共有しているという幸福感がある。


特定の漫画を一冊だけ探そうとして、1万冊の迷宮に迷い込んだ。結局目的の本は見つからなかったけれど、代わりに全く興味のないジャンルの本を手に取っていた。予定通りにいかないことの快感というか、心地よい迷子になる贅沢を、私たちは密かに楽しんでいた気がする。


チェックアウトのとき、誰が一番名残惜しそうにしているか、私たちは賭けなかった。ただ、ホテル湖龍 / Hotel Koryu を後にし、車に乗り込む前に、もう一度だけ湖の青さを目に焼き付けた。まぶたを閉じても、そこにはまだ鮮やかな光の残像が、水面のようにゆらゆらと揺れている。

最後の一歩を踏み出すとき、誰かが小さく笑った。

  • 漫画カフェで、あえて自分とは正反対のジャンルの本を手に取ってみて
  • 早朝の湖畔を、あえて目的地を決めずに散歩してほしい