← 戻る ホテルマイステイズ富士山 展望温泉

山が消えて、私たちはただ笑っていた

山が消えて、私たちはただ笑っていた

「誰が一番に傘を忘れるか」という、大人のすることとは思えない賭けをした。結果は惨敗。全員が忘れた。6月の富士宮は、空気そのものが水分を孕んで重く、湿ったアスファルトのむせ返るような匂いが鼻をつく。ホテルマイステイズ富士山 展望温泉のロビーに足を踏み入れたとき、私たちの靴底からは「ぺちゃぺちゃ」と情けない音が鳴っていた。でも、その不格好なリズムが、なんだか心地よかった。



富士宮焼きそばの、あの焦げ付いたソースの香ばしい匂い。鉄板の上で麺が激しく踊る音が、雨の日の静寂を塗りつぶしていく。口に運んだ瞬間、濃いめの味がじわりと広がり、冷え切った指先まで体温が戻ってくる感覚。誰かが「これ、中毒性あるな」と低く呟き、私たちは言葉もなく深く頷き合った。白い湯気が眼鏡に張り付き、視界がぼんやりと濁る。その不便ささえ、贅沢な時間のように思えた。


「雨が降るって言ったのは誰だ」
「予報では『降るかもしれない』だったでしょ」
ホテルの廊下で、子供のように言い合いをしながら、私たちはわざと大声で笑った。誰かが誰かを軽快に突き放す、心地よいツッコミのリズム。それは、長い時間を共に過ごした者だけが共有できる、秘密の暗号のようなものだ。正解なんてどうでもいい。ただ、この言い合いがぬるい温度で続いていればそれでいい。


リファのドライヤーを誰が先に使うかで、また小さな領土争いが起きた。結局、一番こだわりが強いあいつが、鏡の前で完璧なシルエットを作るまで15分も独占していた。私たちは脱衣所で、乾いたタオルの柔らかな感触に顔を埋め、あいつの執拗なまでの美意識に呆れていた。けれど、その待ち時間の、なんとも言えない気だるい空気が、この旅の正解だったのかもしれない。


展望大浴場に身を委ねていると、目の前の景色がふっと消えた。濃い白い霧が、富士山の雄大な輪郭をゆっくりと塗りつぶしていく。ある瞬間にはそこにいたはずの巨大な影が、次の瞬間には完全に消え去り、ただ真っ白な虚無だけが残る。光学的な錯覚に陥ったかのように、現実感が薄れていく。私たちは、山が消えた空白の場所を指差して、「今、いたよね」と小さく囁き合った。


裸足で踏みしめたタイルの、芯まで冷えるような温度。そこから、肌を包み込むような熱い湯船への急激な移行。展望露天風呂で、水圧が肩に心地よくかかり、肺の中の古い空気がゆっくりと入れ替わる。お湯の表面で小さな気泡がパチパチと弾ける音が、耳の奥に届く。ここでは、誰に気を遣う必要もない。ただ、お湯の重さに身を任せ、自分という輪郭が溶けていくのを待つだけ。


夜、ホテルの外へ出ると、雨上がりの深い闇の中に小さな光が点滅していた。ホタルだ。不意に現れては消えるその淡い光は、まるで誰かが密かに送っているモールス信号のようだった。私たちは息を潜め、その儚い光の軌跡を静かに追いかけた。見つけた瞬間の、小さく、けれど確かな歓喜。それは、計画された観光ルートには絶対にない、偶然という名の贈り物だった。


深夜3時、部屋の明かりを消して、窓を叩く規則的な雨音を聞いていた。隣のベッドからは、深い眠りに落ちた友の寝息が聞こえる。一人でいるときの孤独とは違う、誰かがそばにいることでより際立つ静寂。私たちは、お互いの欠落を埋め合うのではなく、ただ隣に並べて置いていた。明日になればまた、くだらないことで言い合いを始めるだろう。でも、今はただ、この静かな周波数に浸っていたい。

雨の匂いが、まだ指先に淡く残っている。

  • 展望風呂で山が霧に消える瞬間を、ぜひ楽しんで。それがこのホテルの正しい作法。
  • 富士宮焼きそばは、あえて雨の日に食べてみて。あの濃い味が、心まで満たしてくれる。