雨の匂いが、記憶の底にある古いアルバムを開いたときのように、しっとりと肺を満たしていた。濡れた紙の地図をどう畳めばいいのか分からなくなり、結局そのまま丸めてポケットに突っ込んだとき、「もう、それでいいや」と誰かが笑った。私たちは行き先を決めることをやめ、ただ前を歩いていた迷い犬のような猫の後をついていくことにした。それがこの旅の、最初にして最大の「正しい間違い」だったと思う。
予定調和を裏切った5つの記憶
出発早々、私たちは誰が一番早く道に迷うかを競い合うという、旅人にあるまじき賭けをしていた。「私が一番に迷って、美味しいお菓子を奢ってもらうから!」という冗談混じりの宣言から始まったが、結果的に全員が同時に迷子になった。けれどそのおかげで、ガイドブックには載っていない、深い青色の紫陽花が壁のようにそびえ立つ秘密の小道に迷い込んだ。湿った土の濃厚な香りと、肌にまとわりつく重い空気が、むしろ心地よく感じられたのは、私たちが完全に「迷子」という名の自由を手に入れたからだろう。
チェックインして和洋室の扉を開けた瞬間、外の喧騒がふっと消え、心地よい静寂に包まれた。豪華客船を彷彿とさせる重厚な設えに圧倒されながらも、足の裏に触れるカーペットの厚みが、歩くたびに音を飲み込んでいく感覚に安らぎを覚える。窓の外では雨が降り続いていたが、室内には柑橘系の淡い香りが漂い、冷え切った指先がゆっくりと解けていくのが分かった。「ここにいてもいいんだ」と思わせてくれる、適度な距離感のある静けさが、疲れた心を優しく包み込んでくれた。
全室に24時間温泉がついているという贅沢さは、深夜の静寂の中でこそ真価を発揮する。誰にも邪魔されず、ただお湯が注がれる規則的な音だけが部屋に響き、心地よいリズムを刻んでいた。温度は少し高めで、肌に触れた瞬間に「あつっ」と小さく声が出るけれど、その刺激がかえって生きている実感をくれた。白い湯気で視界が濁り、自分の輪郭が曖昧になっていく感覚。高級なアメニティよりも、その温度と音の心地よさに、私たちは一番深く心をつかまれていた。
食事の時間は、もはや静かな戦いだった。運ばれてきた金目鯛の姿煮が、レストランの柔らかな照明の下で、不気味なほど美しく黄金色に輝いていた。一口食べた瞬間、濃厚な甘みと凝縮された旨みが口いっぱいに広がり、それまで言い合っていた些細な文句がすべてどうでもよくなった。隣で友人が「これ、ありえないくらい美味しい」と口いっぱいに頬張っている姿を見て、私たちは同時に吹き出した。食欲という本能だけで繋がる時間は、どんな深い会話よりも信頼できる。
夜、ホタルを探しに外へ出たが、結局ほとんどは見つからなかった。草に濡れた靴が重く、足元の泥のぬちゃりとした感触に「最悪だね」とツッコミを入れ合いながら歩いた。けれど、ふとした瞬間に、目の前で小さな光がひとつ、静かに揺れた。それはあまりに儚く、すぐに消えてしまったけれど、その一瞬の光のために、私たちはわざわざ濡れた草むらを歩いたのだと思う。効率の悪さこそが、旅を旅たらしめる唯一の正解なのだと気づいた、静かな感動の瞬間だった。
不協和音が奏でる心地よい時間
濡れたウールのセーターが放つ、少し重たい匂い。それがこの旅の共通の香りになった。私たちの旅は、まるで調律の狂った楽器のようにバラバラで、あちこちで不協和音が鳴っていたけれど、その不完全さこそが心地よかった。計画通りに進まないもどかしさ、靴が泥だらけになる不便さ、そして、ウィスタリアンライフクラブ鳥羽の柔らかなベッドに倒れ込んで、何も考えずに深い眠りに落ちること。欠けていたピースが、偶然という名の接着剤で繋ぎ合わされていく。完璧じゃないからこそ、私たちは心から笑い合えたのかもしれない。
雨上がりの窓ガラスに、ひとつの雫がゆっくりと滑り落ちていった。
- 6月の鳥羽を訪れるなら、あえて使い古した傘を持っていくこと。少しの不便さが旅を面白くする。
- 早朝の静かな時間にバルコニーへ。雨上がりの空気の透明度は、何物にも代えがたい贅沢である。